[English] [Japanese Home] [Studio BE] [英語の冒険] [映画] [Golf] [Hummingbird]   58218


[IMAGE] 4

公民権運動を描いた映画、ドキュメンタリーなどを観て黒人たちの闘いに感動しました。これは主に南部のいくつかの出来事を振り返り、その史跡を訪ね歩いた記録です。

1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13


● リトル・ロック(アーカンソー州)セントラル高校の人種統合 (1957)

[Central_High]

アーカンソー州の州都Little Rock(リトル・ロック)にあるセントラル・ハイスクールは、1927年の開校当時、New York Times紙が「全米で最も高価な学校建築」と評し、全米建築家協会が「アメリカで最も美しい高校」として選んだ、Little Rockの誇りとも云える学校でした。その美しい姿は1957年のある一つの事件により、最も醜い学校のシンボルとして世界中に知れ渡ることになります。

教育、職業、乗物など、平等の機会・施設が用意されていれば白人と黒人を分離しても合法という1896年の最高裁判決は'Separate but equal'(分離すれど平等)として南部に深く根を下ろしていました。しかし、これは明らかに米国憲法修正第14条「全ての国民は法の前で平等」という趣旨に反していたのです。1950年に提訴され、足掛け5年の法廷闘争となった"Brown vs. Board of Education"(ブラウン 対 教育委員会)という裁判は、1954年に「公教育の場における人種分離教育は違憲」という最高裁判決となり、黒人の教育環境を一新する契機となりました。

既にバスや図書館利用などの人種差別がなくなっていたアーカンソー州においても、徐々に教育機関の人種統合が図られました。アーカンソーは貧しい州なので、郡部においては白人と黒人の二本立てで校舎を建てたり、通学バスを運行するのは大きな財政的負担でしたし、州の北部、西部には黒人が少ないということもありました。しかし、州都Little Rockには当時、市の人口の23.5%も黒人がいたことと、財政的ゆとりもあって、ここでの人種統合はさほど真剣に考えられていませんでした。市教育委員会の委員長は、一気に人種統合するのでなく、先ず白人高校に数人の黒人生徒を転入させ、次第に人数を増やし、中学校、小学校へと段階的に広げて行くという方針を打ち出しました。

[Faubus]

1956年の知事選挙で、Orval Faubus(オーヴァル・フォーバス)候補は「私が知事である限り、どの学区にも人種統合を強制しない!」という公約で選挙に臨みました。保守的な白人票を集めようという作戦だったわけですが、これは図に当たり、彼は見事当選しました。

1957年夏、市教育委員会に転入希望を届け出た80数人の中から、10人の黒人男女生徒が選ばれ、セントラル・ハイへ転入することになりました。いずれも成績優秀、性格もよく行動力も抜群の生徒たちでした。この動きを察知した市民たち(白人)は、9月の新学期前に「人種統合反対!」、「人種統合化は共産主義だ!」などのプラカードを掲げてデモし、セントラル・ハイ前には始終数百人の群衆がたむろする状況になりました。

州議会は「父兄は人種統合を拒否する権利がある」などの(明らかに違憲の)法案を可決し、知事は州兵を用いる権限を行使し、黒人生徒たちの登校を阻止するためセントラル・ハイ前に州兵を配置するという異常事態に発展します。これを知ったラジオ、TV、新聞のリポーター数百人が各地から押し寄せ、セントラル・ハイは今や全世界が注目する学校となりました。

[Crisis]

9月4日の初登校日、黒人生徒たちはNAACP(全国黒人地位向上協会)役員や白人司祭等と共に団体行動で登校することになったのですが、家が貧しく電話のないElizabeth Eckford(エリザベス・エックフォード、15歳)には連絡がつかず、彼女だけは単独で登校しました。彼女は少しでも可愛く見えるようにと、この日のために手製のスカートを作り、アイロンも念入りにかけていました。バスを下り学校に近づくと、並んでいる州兵が「あっちへ行け」という仕草をしました。彼女は素直に通りの反対側へ移り、学校の正面玄関に向います。Elizabeth Eckfordを発見した白人生徒を含む群衆はゾロゾロと彼女について歩き、口々に"Nigger!"(クロンボめ!)、"Go back to Africa!"(アフリカへ帰れ!)などと罵りました。このワン・ブロックは彼女にとって生涯で一番長い距離だったそうです。正面玄関へと続く小道の近くの州兵たちは冷たい目付きで彼女を睨み、銃剣をかざして通せん坊しました。彼女はTV報道で州兵がいることは知っていましたが、「州兵は黒人の生徒を守ってくれる役目」だと思い込んでいたので愕然とします。Elizabeth Eckfordは途方に暮れ、ふと目に入ったバス停のベンチを目指します。罵声や憎しみの目に囲まれ、彼女の膝はガクガクし、やっとの思いでベンチに到達。数人の親切な白人の助けでバスに乗り、母の職場へ駆け込んで泣き崩れたそうです。【詳細1】

団体で登校した9人の黒人生徒たちも州兵に阻まれ、虚しく帰宅するほかありませんでした。この日の恐怖から10人の1人(Elizabeth Eckfordではありません)は脱落。以後、黒人生徒は9人となります。

アイゼンハワー大統領は急遽アーカンソー州兵を連邦軍指揮下におきましたが(これでもう知事の権限は及ばない)、まだ黒人生徒たちは人種差別主義者の群衆に遮られ登校出来ませんでした。アイゼンハワー大統領とフォーバス知事が北部で会談し、知事は統合に積極的なフリをしますが、州に戻って来ると相変わらずの時間稼ぎに終始。23日には高校付近で黒人男女市民四人が暴行を受け、45人が検挙されるという騒ぎがあり、業を煮やしたアイゼンハワー大統領は、9月25日に1,200人の空挺部隊を派遣してセントラル・ハイを“占領”しました。【詳細2】

翌9月25日からは空挺部隊が黒人生徒の登・下校をエスコートするようになります。最初の登校日から既に三週間も経っていました。空挺部隊の警護がないのは教室内と女子トイレの中だけという厳戒でしたが、女子生徒は「トイレに行くのが嫌だった。そこが白人女生徒による嫌がらせの場だったからだ」と語っています。11月、空挺部隊が去って州兵が引き継いでから、嫌がらせと暴力沙汰は果てしなくそこここで行なわれるようになりました。

9人の黒人高校生たちの一人Melba Pattillo(メルバ・パティロ)が書いた'Warriors Don't Cry'(戦士は泣かない)という本を読みました。いやはや、白人高校生たちの連日のいじめ、暴力はひどいものでした。「いじめ、暴力」と云った場合、どんなものを想像されますか?"Nigger"呼ばわりなどはいい方で、黒人男女生徒たちはこづかれ、蹴飛ばされ、殴られましたが、これなどもまだ普通。歩いているとすぐ背後から同じスピードで追尾されて蹴り倒される、洋服にインクをぶちまけられる、シャワー使用中に衣服を水浸しにされる、トイレに座っていると火のついた紙を投げ込まれる、ナイフをちらつかされる、薬品を投げつけられて失明寸前になることさえありました。白人女生徒たちが急に理解を示し、親しくつきあってくれ始め、「やっと受け入れられたのか!」と喜ぶと、数日後には手のひらを返すように無視するという陰険ないじめもありました。【詳細3】

Melba Pattiloの家には白人父兄たちによって弾丸が打ち込まれ、彼女の気丈な祖母は毎夜ショットガンを抱いて孫娘と家族を守らなければなりませんでした。Melba Pattilloのセントラル・ハイにおける一年間、ごく少数の白人同級生、白人教師から共感は得られたものの、ほとんどの生徒、ほとんどの教師は人種差別主義者で、白人男女高校生のいびりを教師たちが見て見ぬふりして容認したことが語られています。教師たちは自分が差別主義者でなくても、黒人を擁護して白人の父兄から指弾されることのないよう身を処したのでしょう。いびりで出血させられたために絆創膏を貰いに行くと、事務の女性は「この学校へ来なけりゃ、こんな目に遭わないのよ」と云い放ち、暴力行為を届け出ても「教師が目撃していない限り、受け付けない」と無視されました。9人の生徒たちは文字通り孤立無援、一人一人が“戦士”として強靭な忍耐心を持たなければなりませんでした。

Elizabeth Eckfordは後にこう云っています。"It was hard, going back every day. It was hard, trying to stay there all day."(毎日学校へ行くのは大変でした。そこで一日中逃げ出さないで留まっているのも大変でした)

9人の生徒を支えたのはLittle RockのNAACP代表であったDaisy Bates(デイジィ・ベイツ、当時43歳)という黒人女性でした。彼女は幼少の頃に母親を白人数名によって強姦・殺害され、知人の養女となって成長しました。後に彼女はいくつかの新聞社で働いた経験のあるミシシッピ州生まれの男性と結婚。夫婦で'Arkansas State Press'という週刊新聞を発行します。Daisy Batesは共同発行人であり記者でもありました。順調に新聞の部数が拡大し、二人は晴れて一戸建ての家を購入しました。その後、セントラル・ハイに転入した黒人生徒をサポートすることは、NAACP役員となったDaisy Batesの最も重大な役目となりました。彼女は学校当局に暴力的生徒の処分を求めたり、大統領に直訴の電報を打つなど積極的に行動しました。また、彼女の家は9人の生徒の登下校の集合地点となり、新聞記者などが生徒たちにその日起った出来事などを聞く会見場ともなりました。そのため、彼女の家は人種差別主義者たちのターゲットとされ、投石で窓が割られることはしょっちゅうで、爆弾が庭に投げ込まれたり、K.K.K.によって火のついた十字架が立てられたこともありました。

そのDaisy Batesの著書'The Long Shadow of Little Rock'の記述をもとに、9人の生徒のプロフィールを紹介しましょう。

[Nine]

Minnijean Brown(ミニジーン・ブラウン)
 16歳。背が高く、魅力的で社交派の女の子。歌が上手で、スポーツも人並み以上。彼女も数々のいじめに遭い、12月を迎える頃には忍耐の限界に達していました。彼女が学生食堂で妨害にあった時、彼女は白人男子生徒たちに「今度やったら、頭に気をつけるのね」と警告しました。12月7日、又もや食堂で彼女の前に椅子が蹴り出された時、彼女は2人の白人男子生徒の頭に食べ物をぶちまけました。このためMinnijean Brownは六日間の停学処分を受けました。ある時、同級の白人女子生徒がMinnijean Brownに向かって"Black bitch!"(黒人のあばずれ!)と罵り、Minnijean Brownは"White trash!"(白人のクズ!)とやり返しました。その後、Minnijean Brownが食事をしていると、前のとは異なる男子生徒が彼女の頭にチリ・ソースをぶちまけました。Minnijean Brownは「もう揉め事は起さない」という学校当局への誓約を破った廉で、学期中の停学処分となりました。彼女の学業が滞ることを心配したNAACPはニューヨークの黒人心理学者(ブラウン対教育委員会訴訟で白と黒の人形を使った実験をした人)のもとに送り、ニューヨークの高校に転校させました。白人男女生徒たちは、フットボールの用語をもじり、"One down, eight to go!"(1人減った、あと8人だ)を合い言葉にしたそうです。【詳細4】

Jefferson Thomas(ジェファスン・トーマス)
 15歳。ほっそりとし、物静かな少年。黒人高校では陸上競技の花形選手でしたが、セントラル・ハイでは黒人生徒には全ての課外活動が許されなかったため、諦めざるを得ませんでした。ある時、Jefferson Thomasがロッカーの前にいると、数人の白人男子生徒が取り囲みました。背後の1人がいきなり彼の後頭部を殴り、彼は昏倒しました。翌日、母親が「今日は休め」と云いましたが、Jefferson Thomasは「今日休めば、明日はもっとひどくなる」と、大きな瘤をそのままに登校して行ったそうです。

Carlotta Walls(カーロッタ・ウォールズ)
 14歳。背が高く、痩せ気味で、水泳とボウリングが大好きな女の子。地域の野球チームのナンバー1でもありました。彼女の母親は32歳で、娘が学校でいじめられ、鉄の靴で蹴られて脚に出血して帰って来ることが耐えられませんでした。母親は「明日は脚ではないかも知れない。目かも知れない」と心配だったのです。気丈な娘の機嫌が悪くなるので、母親はそういう心配を必死で押し隠していました。しかし、それは完全にはうまく行きませんでした。八ヶ月後、学校が終わるまでにこの若い母親の髪は真っ白になってしまったのです。

Elizabeth Eckford(エリザベス・エックフォード)
 15歳。初登校日に悪意の群衆に取り囲まれた少女。セントラル・ハイに通う強い意志を持っていました。各国からNAACP宛てに届く激励の手紙から、注意深く切手を切り取って彼女のコレクションに加えていました。洋服を作るのが好きで、新しい服で通学するのが喜びでした。

Thelma Mothershed(セルマ・マザーシェッド)
 16歳。彼女は身長1.5m、体重43kgという小柄な少女で、幼い頃から心臓病を患っていました。母親は、セントラル・ハイの高い階段は娘の身体に良くないと心配していたそうです。初登校日、案の定Thelma Mothershedは軽い心臓発作を起して、事務室に寝ていなければなりませんでした。Daisy Batesはオクラホマ州の人種統合された高校が奨学金付きでThelma Mothershedを招聘していることを聞き、両親に「オクラホマに行くべきだ」と勧めました。母親は「ノー。絶対駄目です。もう娘は決心したのです。私に出来ることは、学校当局に低い階のクラスをアレンジして貰うよう頼むことだけです」と云い切りました。彼女の健康状態にかかわらず、Thelma Mothershedはほぼ完璧な出席率を記録しました。

Terrence Roberts(テレンス・ロバーツ)
 15歳。控えめで勉強熱心な男の子。1958年2月、Terrence RobertsはDaisy Batesに校内暴力について報告しながら、「もう沢山だ!教頭に届けても、成人の目撃者がいなければ駄目だって取り上げてくれないんだ」と訴えました。Daisy Batesは「あなたがもう学校に行かないと決心しても、私はあなたを責めないわ」と云うしかありませんでした。翌朝、一番に登校した生徒たちの中にTerrence Robertsの姿がありました。Daisy Batesが「一体、どうしたの?」と聞くと、彼は「一晩考えた。あんなチンピラ連中にセントラル・ハイから追い出されてたまるかと決意したんだ」と答えました。

Melba Pattillo(メルバ・パティロ)
 15歳。落ち着いた、才能ある、ハキハキした少女。女優志望で、幼少からバレエ、発声、ピアノなどのお稽古を続けていました。(筆者註:どの写真を見てもMelba Pattiloは必ず横を向いて笑みをたたえています。そのアングルがお気に入りなのでしょうが、他の生徒たちの真面目な顔との対照が可笑しい)彼女の母親は市内のいくつかの学区の学校で教える教師でしたが、(娘をセントラル・ハイに送り込んだたため)翌年の契約を得られず失職することになりました。

Gloria Ray(グロリア・レイ)
 15歳。細身の魅力的な少女。60代の父親は心臓が弱いため数年前に退職。Gloria Rayは両親に相談せずセントラル・ハイ転入を希望して受け入れられました。母親は「心臓の悪いお父さんには、しばらく内緒にしておこう」と云いました。初登校日の騒ぎがTV中継された時、父親は自分の娘の名が生徒名として放送されたのを聞き、初めて事実を察知。娘の身を案じた父親は「どこの私立でもいいから好きなところに移れ」とGloria Rayに云いました。娘は「お父さん。私はお父さんを愛してるし、お父さんの健康を損ないたくない。でも、セントラル・ハイをやめるのはいや。それだけは出来ないわ」と答えました。彼女の父はDaisy Batesにこう語りました。「娘が学校にいる間、私はずっと恐れ戦いていなければならない。しかし、娘の勇気は誇らしい思いです」と。

Ernest Green(アーネスト・グリーン)
 16歳。最上級生。黒人高校のスクールバンドではテナーサックスの名手として知られていましたが、セントラル・ハイでは活動を許されませんでした。父親がしばらく前に亡くなっていたため、Ernest Greenは“家長”として、母親を支え、弟の面倒を見ていました。彼がセントラル・ハイ転入の意志を表明した時、母親(小学校教師)は最終学年での転校を懸念しましたが、決定は息子に任せました。Ernest Greenの叔母さん(高校教師)はこう云ったそうです、「本気でセントラル・ハイに行く気なら、私たちはあなたをサポートします。あなたが自分の行動と勇気に信念を持ってあたるなら、ずっと助けましょう。大変なことでしょうけど、一旦そこに突入したら退却は無しよ」Ernest Greenは9人の生徒の中の“家長”としても重要な存在でした。みんなの勇気を挫かないように、自分の苦しみや恐怖を抑え、常に話題の方向に気を配っていました。

いじめは学校内ばかりではありませんでした。9人の生徒の親たちを初め、黒人労働者の多くが職を追われるような脅しをかけられました。そのため、黒人一般も9人の家族を責め始める事態となり、9人の元の友人たちすらも彼らを疎んじ始めました。聖職者からの励ましや他州、外国からの応援の手紙が心の支えだったそうです。

翌1958年、最高学年だったErnest Green(アーネスト・グリーン、17歳)はセントラル・ハイ初の黒人卒業生として、黒い帽子とガウンをまとって卒業証書を受け取りました。アラバマ州から市の黒人だけのカレッジにスピーチに訪れていたキング牧師も、Daisy Batesらと共にこの歴史的瞬間に立ち会いました。

しかし、この年69%の得票率で三選を果たした知事Orval Faubusは、「公立高校を全て廃校にする」という無茶苦茶な法案を提案・可決させ、新たに私立高校を新設し、実際にセントラル・ハイその他の四つの高校を閉鎖してしまいました。残った黒人生徒8人は、仕方なく他州の高校へ転校せざるを得ませんでした。市の教育委員会は黒人寄りの考えや統合化賛成を表明した教師44人を解雇するなど、市民団体や商工会議所からも疑問視される行動を取り、ついに連邦地方裁から「学校閉鎖は違憲」というお咎めを受け、セントラル・ハイを含む公立高校が再開される運びとなりました。

一年間、嫌がらせや暴力に耐えた9人の生徒たちは"Little Rock Nine"(リトル・ロックの9人)として、その後その勇気を賞賛されました。【詳細5】彼らがセントラル・ハイのドアをくぐってから42年後、ホワイトハウスにおいてCongressional Medal of Honor(議会の名において大統領が親授する、アメリカの最高勲章)を9人全員が授与されました。これは普通、軍人の犠牲的殊勲に対して与えられるもので、民間人が授与されるのは非常に稀な勲章です。親授したのは元アーカンソー州知事のクリントン大統領でした。この栄えある儀式にただ1人欠けていたのは、9人の生徒と家族の後ろ盾だった女性Daisy Batesの姿でした。彼女はホワイトハウスの儀式の数日前に84歳で亡くなっていたのです。

セントラル・ハイを訪れました。学期休みで生徒の姿は見えず、前庭が工事中となっています。初登校日、Elizabeth Eckfordは学校の建物を見上げて「でっかいわ!」と思ったそうです。確かに、7階建ての外観はお城のような、あるいは巨大な刑務所のような威圧感を持っています。

[Central][One_block]

私は先ず1957年にElizabeth Eckfordが群衆に囲まれて歩いた道を歩きました。彼女が「生涯で一番長いワン・ブロックだった」と云う学校前の道です。学校正門に通じる右側の小道(彼女が州兵に「あっちへ行け」と云われた場所)からもう一つの小道(州兵が銃剣で通せんぼうした場所)まで、私の足でたった120歩でした。しかし、差別主義者たちの悪罵を受けながらの120歩は、彼女には気が遠くなるほど長かったのでしょう。彼女はそこから更にバス停のベンチを目指したわけですが、今はバス停はなく、あと何歩歩いたのかは分りませんでした。

そのElizabeth Eckfordの歩行の写真15枚を載せた本を持参していました。私は群衆の背後の家々を現在の建物と照らし合わせました。47年前と全く変わっていません。もちろん、ペンキは塗り替えたでしょうが、建物は同じです。一軒の前で車の整備をしていた黒人女性に本の写真を見せました。「あら!これ私の家!」47年前の大事件の写真に、彼女の家が写っているのでびっくりしていました。セントラル・ハイの目の前に住む黒人自身は、こんな写真を見たこともないという事実に私の方もびっくりさせられました。

[Central]

正面玄関に近づいて行くと、御影石で彫られた四体の女神像が目を引きます。それらは、「大望」、「個性」、「機会」、「準備」と名付けられています。いずれも、セントラル・ハイからさらに高度な教育機関で学ぶことを示唆するキィ・ワードです。Little Rock Nineは、いずれも「個性」豊かで学力もありましたし、人種統合の「機会」に黒人だけの高校よりは優れた教育をセントラル・ハイで受けて大学入学の「準備」をし、世に出て活躍しようという「大望」があったのです。彼らほどこれらのキィ・ワードに相応しい生徒たちはいませんでした。にもかかわらず、待っていたのは身体的、精神的暴力でした。日々のLittle Rock Nineの苦難を見下ろしていた女神たちは、白人生徒たちの愚かしさをさぞ悲しんだことでしょう。

いかめしいセントラル・ハイの外観を和らげるためか、現在は地階のアーチの後ろに巨大な虎がモザイクで描かれています。フットボール・チームのマスコットのようです。2004年現在の人種別比率は、白人42%、黒人55%、その他3%となっています。1957年当時に較べれば、黒人選手によってフットボール・チームが段違いに強くなったであろうことは想像に難くありません。最近は生徒会長に黒人生徒が選ばれることもあり、かつ校長も黒人の先生が就任したりしているようです。Little Rock Nineの時代とは大きく様変わりしたのです。


セントラル・ハイについては二つの映画があります。私の映画紹介は以下をご覧ください。

'Crisis at Central High'『アーカンソー物語』 (1990)
'The Ernest Green Story'(本邦未公開) (1993)

[Video] [Video]



【旅のメモ(Little Rock篇)】Little Rockを訪ねてみようと思われた方は是非御覧ください。


【参考文献】

'Warriors Don't Cry'
by Melba Pattillo Beals (Washington Square Press, 1964, $14.00)

'Crisis at Central High'
by Elizabeth Huckaby (Louisiana State University Press, 1980)

'The Long Shadow of Little Rock'
by Daisy Bates (The University of Arkansas Press, 1986)

'A Life is More Than a Moment'
by Will Counts et al. (Indiana University Press, 1999, $29.95)


Index

  1. イントロダクション
  2. ブラウン対教育委員会・最高裁判決 (1954)
  3. モンガメリ(アラバマ州)のバス・ボイコット (1955)
  4. リトル・ロック(アーカンソー州)セントラル高校の人種統合 (1957)
  5. ニュー・オーリンズ(ルイジアナ州)のルビィ・ブリッジス(6歳)の入学 (1960)
  6. ミシシッピ大学初の黒人学生ジェイムズ・メレディスの転入にともなう暴動 (1962)
  7. ミシシッピ州NAACP代表メドガー・エヴァーズの暗殺 (1963)
  8. バーミングハム(アラバマ州)の教会爆破事件 (1963)
  9. ミシシッピ州「フリーダム・サマー」活動家三人の暗殺 (1964)
  10. セルマ→モンガメリ(アラバマ州)選挙権獲得をめざす大行進 (1965)
  11. ジェイムズ・メレディスの「恐怖への行進」(ミシシッピ州) (1966)
  12. メンフィス(テネシー州)のキング牧師の暗殺 (1968)
  13. 終章・黒人たちの抱える問題 (2006)



[English] [Japanese Home] [Studio BE] [英語の冒険] [映画] [Golf] [Hummingbird]


Copyright (C) 2002-2017 高野英二 (Studio BE)
Address: 421 Willow Ridge Drive #26, Meridian, Mississippi, U.S.A.