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公民権運動を描いた映画、ドキュメンタリーなどを観て黒人たちの闘いに感動しました。これは主に南部のいくつかの出来事を振り返り、その史跡を訪ね歩いた記録です。
● Selma→Montgomery(アラバマ州)選挙権獲得をめざす大行進 (1965)Birminghamの教会爆破事件はアメリカの黒人社会に衝撃を与えました。それは燃え上がっていた公民権運動に油を注いだような結果をもたらしました。 州都Montgomery(モンガメリ)の西方にSelma(セルマ)という町があります。人口20,000。この町はアラバマ川に面し、もともと綿花の積み出しなど内陸港として栄えた町で、アラバマ州のQueen Cityと呼ばれています。周囲にプランテーションも多く、黒人奴隷を供給する奴隷市の町としても有名でした。1965年当時、奴隷の子孫の黒人の数は白人を上回っていましたが、町の黒人9,600人のうち選挙権が得られたのはたった150人(1.6%)でした。選挙権登録は月に二日しか出来ず、黒人の行列が長くなるに従い係の役人の昼の休憩も長くなる始末。黒人の市内におけるデモ行進は、次第に暴力的に弾圧されるようになりました。 1965年2月18日、隣町Marion(マリオン)で黒人の集会が開かれた時、参加者が州警官の一隊に襲われました。殴られる母親と祖父をかばった黒人青年Jimmie Lee Jackson(ジミィ・リー・ジャクスン)に、一人の州警官が至近距離から弾丸を発射。Marionの病院はどこも彼を手当てしようとせず、Jimmie Lee JacksonはSelmaに運ばれて来ましたが、数日後に死亡しました。黒人たちの憤りは激しく、「Jimmie Lee Jacksonの亡骸を州知事George Wallace(ジョージ・ウォレス)の足元に横たえよう」という案が出ました。これがいつしかSelmaから州都への大行進というアイデアに展開して行きました。 Martin Luther King, Jr.(キング牧師)はこのSelmaから Montgomeryへの「選挙権を求める大行進」を承認しました。1965年3月7日、キング牧師は郷里ジョージア州 Atlanta(アトランタ)の教会に戻っていて不参加でしたが、電話でゴー・サインを出しました。SNCC(非暴力学生連盟)やSCLC(南部キリスト教指導者会議)などの先導で500人規模の行進が始まりました。警察も州知事もデモ行進を許可しなかったため、違法となることは承知でした。ダウンタウンを出るとすぐアラバマ川を渡るEdmund Pettus Bridge(エドマンド・ペタス橋)が架かっています。橋を渡った地点に州の騎馬警官たちが待ち受けていて行進を阻止し、デモ参加者に「町へ帰れ」と命じました。動かないデモ隊に突如催涙弾が打ち込まれ、警棒を振りかざした州警官、民兵が一丸となって襲いかかり、逃げまどう人々をどこまでも追いかけました。負傷者数65名という最悪の事態となり、この日は"Bloody Sunday"(血の日曜日)と呼ばれています。【詳細1】 "Bloody Sunday"の模様は全米にTVニュースとして流され、警官隊が非武装の一般人を襲うその残虐さに非難の声が巻き起こりました。キング牧師の呼びかけによって「Selmaを支援せよ!」と全米各地から皮膚の色を問わず沢山の人々が結集。翌日、急遽駆けつけたキング牧師は様々な宗派の牧師を中心とするサポーター多数と共にEdmund Pettuce橋に向け行進し、バリケードを築いている州警官達を前に祈りを捧げました。この日はそれだけで町に引き返し、デモ行進を正式に認める連邦裁判所の許可を待ちました。 時の大統領Lyndon B. Johnson(リンドン・B・ジョンソン)は議会で演説し、「『全ての国民は平等』という約束がなされて100年以上経った。その約束はまだ果たされていない。今こそ正義が行われるべき時である」と選挙権行使妨害防止法案を提出しました。また、Selmaのデモ行進の正当性についても言及し、アラバマ州警官隊を州知事から取り上げて連邦政府の指揮下に入れ、行進の警護に当たらせることにしました。【詳細2】 3月21日、日曜日、キング牧師夫妻を先頭に3,000人のデモ行進がスタートしました。サポーターの白人も多く、カソリック、プロテスタント、ユダヤ教など、さまざまな宗教の司祭、尼僧たちも参加していました。州警官の援護によりEdmund Pettuce橋も無事に通過出来ました。 この「Selma→Montgomeryの行進」は有名なのですが、どの印刷物にも参加者数や日数が記載されていません。私は頭の中でせいぜい三時間程度の行進を想像していました。私はMontgomeryからSelmaへと高速80号線を逆にドライヴしたのですが、何と54マイル(87km)もあるのです。結構きつい坂もあります。「こんな長距離を一日で歩けるわけない」と思いました。 Selmaの'National Voting Rights Museum & Institute'(選挙権博物館)で貰った小冊子が謎を解いてくれました。行進には何と五日もかかっているのです。毎日、途中の黒人農園主などの庭先で休息。食事の後はテントで毛布に包まって寝たそうです。雨の日もあり、足は痛み、大変な行進だったようです。「8マイル(約13km)以降、道路が二車線になったら行進は300人のみ可」という判事の命令で途中参加者を減らしましたが、最終日Montgomeryの8マイル手前からは25,000人に膨れ上がりました。丁度10年前のバス事件のヒロイン、病弱なRosa Parksもこの日だけ参加しました。州議事堂前に到着し、Harry Belafonte(ハリィ・ベラフォンテ)、Joan Baez(ジョーン・バエズ)、Peter, Paul and Mary(ピーター・ポール&マリー)らが歌を披露。有名人としてはLeonard Bernstein(レナード・バーンスタイン),Johnny Mathis(ジョニィ・マティス)、 Tonny Bennett(トニィ・ベネット)、Sammy Davis Jr.(サミィ・デイヴィスJr.)らの顔もありました。最後にキング牧師が立ち「我々の行動は続く。投票箱に向かって行進しよう!」と全米に熱く訴えました。 Montgomeryのヴィジター・センターで50代の黒人の女性係員と話しました。彼女はこの行進をよく覚えていました。当時、彼女は高校生。「学校の先生たちも参加したがったのだが、もし参加すれば職を追われるのは明白だったので、ほとんど参加出来なかった。私は行進がMontgomeryに入った時に見に行った。物凄い人の波で、本当に感動した」と語ってくれました。 「大行進」は平和裡に終わりましたが、行進が終わってからは参加者は州兵の護衛もなく帰路に着かねばなりませんでした。そして、一つの悲劇が高速80号線で起りました。【詳細3】 1965年7月9日、米議会は選挙権行使妨害防止法案を立法化しました。 2003年の'Bridge Crossing Jubilee'(渡橋記念祝典)に参加しました。毎年(7日未満の週を除く)3月最初の日曜日が祝典の日と定まっているそうです。2003年は3月7日(金曜日)から祝典が始まり、土曜日は9:00にパレード、11:00から18:00まで街頭音楽祭、最終日の日曜日午前に「宗派に無関係の祭礼」の儀式があり、2:00過ぎに記念の行進というプログラム。 私は土曜の午後にSelma入りしたのですが、宿はどこも満員かと心配したのは杞憂で(マルディ・グラではないので)、結構空き部屋がありました。'National Voting Rights Museum & Institute'(選挙権博物館)の前のWater Avenueを歩行者天国にし、南にR&Bとロックの舞台、北をゴスペルの舞台と分けて数々のグループが熱演。私はDottie Peoples(ドッティ・ピープルズ)のゴスペルを楽しみました。道路のほとんどはよくある田舎のお祭りのように、食べ物、民芸品、ポスター、Tシャツ、海賊版CDやDVD(先週封切られたばかりの映画のDVDまである!)などを売る店が連なっています。入場料は前売り$10.00、当日$13.00。「街頭音楽祭」と云えど仕切りがあって、入場料を払わないと舞台に近づけないようになっています。 日曜朝11:00にBrown Chapelほかいくつかの教会において、"Interfaith Service"(宗派にとらわれない祭礼)が行われました。Brown ChapelではMartin Luther King, III(マーティン・ルーサー・キング三世)、他の教会では有名牧師のJesse Jackson(ジェシー・ジャクスン)や地元の英雄的活動家の牧師C.T. Vivian(C.T.ヴィヴィアン)らがホストを勤めました。私が参加したBrown Chapelには元SNCC(非暴力学生連盟)委員長John Lewis(ジョン・ルイス)が来ていました。彼は現在ジョージア州選出の下院議員で、今回は選挙権博物館の「名誉の殿堂」に名を連ね、彼に捧げられた記念碑の起工式のために来たそうです。彼は1961年にFreedom Riderの一員としてアラバマで暴徒に殴られたことがあったのですが、“血の日曜日”には行進の先頭に立ち、警官隊から同じ箇所を殴られたとこぼしていました。上の'LIFE'の表紙では、先頭左から二番目の白いコートの小柄な男がJohn Lewisです。 ディズニー映画'Selma, Lord, Selma'のモデルで、キング牧師に愛された地元少女たちの一人Sheyann Web(シャイアン・ウェブ)の顔もありました。彼女は青少年育成の基金を創設し、主に青少年の才能開発を助成しているそうです。 午前中は雨もよいの陰鬱な空模様でしたが、昼過ぎから晴れ上がって、三月というのに初夏のような暑さになりました。この年は十回目の記念行進にあたります。過去には現職大統領だったクリントンも参加したことがあります。今年は各州の議員十名前後が参加。2:00にBrown Chapelに参加者が勢ぞろい。黒人も白人も、メキシコ人、そして日本人(私)もいます。プログラムには「行進前の集会」という文字があるのですが、実際には誰も何も喋らず、いきなり行進が始まります。John LewisやJesse Jacksonなど来賓を先頭に、2,800名の大行進。昔は敵だった警官たちが、オートバイや車でエスコートします。見ると多くの警官たちは黒人でした。市長も黒人ですし、この変化は目を見張らせるものがあります。今や懐かしい"Ain't Nobody Gonna Turn Me 'Round"や"Eyes on the Prize"など、公民権運動の“聖歌”の合唱。老けた顔の人ほど誇らしく、声高に歌っています。Edmund Pettus Bridge(エドマンド・ペタス橋)の上、キング牧師らが祈りを捧げた地点で犠牲者を悼み、まだこれからの運動達成が祈られ、その昔州警察官たちが待ち受けていた場所の傍らに作られている記念公園で集会が開かれました。先ず、John Lewisを讃える言葉、彼による記念碑の起工式、さまざまな人たちのメッセージ、若者たちの合唱、「大行進」を体験した老年合唱団の歌などが繰り広げられました。 2005年は「大行進」から40年目にあたりました。40周年記念ということで、豪華な顔ぶれがEdmund Pettuce橋を渡りました。40年前、夫のキング牧師と共に行進したCoretta Scott King(コレッタ・スコット.キング)、40年前参加者たちを歌で慰め励ましたHarry Belafonte(ハリィ・ベラフォンテ)、そしてこの行進の後選挙権法案に署名したジョンソン大統領の娘Lynda Johnson Robb(リンダ・ジョンソン・ロブ)など。 2005年の渡橋記念祝典の後、約50名の人々が1965年の大行進を再現すべく、五日間かけてSelmaからMontgomeryまで歩きました。3月12日、終点の州議事堂前には約300名の人々がつめかけ、大集会が行なわれました。1965年以前のアラバマ州で選挙によって選ばれた黒人の数はゼロでしたが、2001年までには755人の黒人が当選するという成長を見せています。南部全体で云いますと、1965年以前はたった70人であった黒人当選者数が、2001年には7,000人となったそうです。全てはこの大行進の成果である選挙権行使妨害防止法案によって、黒人有権者数が飛躍的に増加したからにほかなりません。 Selmaに住む少女の目を通して、この行進に至るまでの経緯が映画化されています。その紹介は以下をご覧下さい。"Bloody Sunday"の描写には胸が痛みます。 ・'Selma, Lord, Selma'(TV映画、本邦未公開)(1999) 【旅のメモ(Selma篇)】Selmaを訪ねてみようと思われた方は是非御覧ください。 【参考文献】
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