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公民権運動を描いた映画、ドキュメンタリーなどを観て黒人たちの闘いに感動しました。これは主に南部のいくつかの出来事を振り返り、その史跡を訪ね歩いた記録です。
● ミシシッピ大学初の黒人学生ジェイムズ・メレディスの転入にともなう暴動 (1962)ミシシッピ大学(University of Mississippi)はミシシッピ州で最もレヴェルが高いと云われています。この大学の愛称は'Ole Miss'(オル・ミス)で、マスコットは白髪紳士の'Colonel Reb'(レブ大佐)【註参照】、フットボール・チームの名は'Rebels'です。'Rebels'は(南北戦争時の反乱軍=南軍)で、'Colonel Reb'のイメージはプランテーション・オーナーの南軍大佐を彷彿とさせ、'Ole Miss'はプランテーションの女主人の愛称です。つまり、どれを取っても古き南部のイメージなのです。 【註】近年のミシシッピ大学は南軍のイメージを極力排除しようと努めており、1997年からスポーツ・イヴェントで南軍旗を振ることを停止し、2003年のフットボール・シーズンから'Colonel Reb'(レブ大佐)のマスコットをサイドラインから引っ込め、2009年から応援団の"the South will rise again"(南部は甦る)という文句を誘発する応援歌を演奏しなくなりました。そして2010年2月、生徒会は学生の投票により正式に'Colonel Reb'(レブ大佐)を捨て去り、新しいマスコットを募ることを決めました。ミシシッピ大学のあるOxford(オックスフォード)は、テネシー州に近い、ミシシッピ州北方に位置し、人口約10,000のこじんまりした町です。町の中心にある市役所を囲む商店街は「スクウェア」と呼ばれ、レストランや本屋、洋品店などが集まっています。この町はノーベル文学賞のWilliam Faulkner(ウィリアム・フォークナー)が住んでいた所として有名です。 1962年9月にミシシッピ大学に入学した、私の友人の娘Susan(スーザン)は入学時に起った一夜の暴動と流血騒ぎを今でも忘れません。彼女は女子寮に避難していたにもかかわらず催涙ガスの不快感を味わい、喧噪と発砲の音で一晩中眠れなかったそうです。この悪夢のような一夜は、彼女に退学まで考えさせたとか。 1961年1月下旬、ミシシッピ大学に他の大学からの編入申し込み書が届きました。書類には次のような手紙が添付されていました。「編入手続きに関して御親切なお言葉を頂き感謝いたします。そのお言葉は私が白人の志願者でないとなっても、変更されないことを期待します。私は黒人です。貴校には黒人の卒業生は存在しませんので、卒業生による六通の推薦状を揃えることは私にはかないません。代りに、私がこれ迄就学した四つのカレッジの推薦状を同封いたします」彼の成績はどの学科でもB以上という優秀な成績でした。 この生徒の名はJames Meredith(ジェイムズ・メレディス)。ミシシッピで1933年に生まれ、当時28歳。結婚して、二歳になる男の子がいました。何故、年を食っていたかというと、高校を卒業後彼は9年間米空軍に勤務したからです。日本の立川基地で三年間過ごしたそうで、日本では全く差別的扱いを受けず、「先ずアメリカ人として扱われた」と語っています。基地内にあったメリーランド大学(University of Maryland)の分校に通っていましたが、ある日、日本人学生と話す機会があり、丁度アーカンソー州リトル・ロックの騒ぎがあった頃で、日本人学生はそんな偏見のある南部に戻ることに疑問を呈したそうです。【詳細】実際にはこのやりとりがJames Meredithに郷里に帰る決意を深めさせました。帰国してミシシッピ州に戻り、州都ジャクスンのカレッジに在学しましたが、より高度な勉学を望んでミシシッピ大学への編入を希望することになりました。 当時、南部諸州の大学の多くは既に黒人の生徒を受け入れていました。しかし、ミシシッピ州の、特に“最高”と云われるミシシッピ大学には黒人の生徒は皆無でした。後に暗殺されるNAACP(全国黒人地位向上協会)の活動家Medger Evers(メドガー・エヴァーズ)も1954年に法学部に入学を希望したものの、推薦状の不備を理由にはねつけられていました。申込者James Meredithが黒人だと知った大学側がどうしたかというと、「貴殿の書類は第二学期の生徒登録に間に合わなかった」という電報を打ち、急遽必要単位の下限などを変更して彼が編入不可能なように画策しました。 James MeredithはNAACPの弁護士の助力で大学を相手に地方裁判所に提訴。裁判というよりヒアリングでしたが、偏見の持ち主である裁判長はさまざまな方法でヒアリングの日程を引き延ばしました。それによってJames Meredithは第二学期に就学出来ませんでした。同年12月、業を煮やしたJames Meredithは控訴裁判所に提訴。控訴裁判所はヒアリングの裁判長が不適切な判断で引き延ばしをしていることを指摘し、1962年6月に「大学はJames Meredithを受け入れよ」という判決を下しました。それでもなお引き延ばし作戦で編入を阻もうとする動きに、遂に司法省が介入して連邦最高裁の決断を促します。連邦最高裁主任判事は一刻の猶予も許されないため電話で同僚判事たちの意見を集め、「大学はJames Meredithを即刻受け入れるべし」との判断を示します。これで一件落着ならいいのですが、そこがDeep South(アメリカ深南部)です。推定5,000人の暴徒が大学に集結し、死者も出るという流血の騒ぎとなります。 裁判の最中から、ミシシッピ州の政治家、実業家、新聞社などはミシシッピ大学の人種統合に反対する意思表示をしていました。その先頭は当時の州知事Ross Barnett(ロス・バーネット)で、彼は「オレが逮捕されることになっても、黒人の入学は断固阻止する」と宣言していました。「教育機関の人種差別は違憲である」という最高裁判決がある上に、ミシシッピ大学の一件は合衆国司法長官ロバート・ケネディが注目していました。控訴裁判所の判決が出た以上、それに従わないのは「法と秩序」への反逆ですから、州知事の逮捕うんぬんもあり得ないわけではありません。9月下旬、大学当局は最高裁判決に対する侮辱罪を免れるため、州知事を一時的に学籍係に任じJames Meredith対策の全権を委任しました。レッドネックの知事に全権を委任するとは、大学当局も血迷ったとしか考えられません。 州知事はケネディ大統領、ロバート・ケネディ司法長官の二人を相手に、のらりくらりと時間稼ぎの返事をし、地元のラジオなどでは南部人を煽動していました。しびれを切らしたロバート・ケネディは、最高裁命令に従わない罰金として知事に一日$10,000を課すという通知をします。慌てた州知事は態度を変えて受け入れを表明。ロバート・ケネディは州知事への直接の電話で、「10月1日月曜には何としてもJames Meredithを入学させよ」と指示します。州知事は「大学近辺には多数の人間が結集しつつあり、完全にコントロール出来るかどうか分らない。不測の事態を避けるため、前日の9月30日の夕方にJames Meredithを大学構内に入れたい」と返事し、了承されます。 その変更と各方面への連絡ミスが命取りとなりました。先ず、ロバート・ケネディが軍隊への連絡を忘れたため、軍隊は翌日に出発というスケジュールを変えませんでした。州知事は自らは州都ジャクスンに留まり、四人の政治家・判事たちに任務を代行させたのですが、彼等にその日James Meredithが来ることを知らせることを怠り、James Meredith受け入れに方針を変更したことも伝えませんでした。そのため、四人の代行は自分たちの役目はJames Meredithの編入阻止だと誤解しました。午後になるとトラック五台に分乗したマーシャル(連邦執行官)127名が到着して学長館(Lyceum Building)前で群衆と対峙。夕刻、セスナ機で大学空港に到着したJames Meredithは無事学長館に入りましたが、この前後から他州ナンバーの車で押しかけた群衆は膨れ上がるばかりとなりました。夜間、フットボール観戦から戻った学生たちも広場に押し寄せ、学長館前広場は次第に騒然となって来ます。 学生以外の群衆は単なる野次馬ではなく、アラバマ州、ルイジアナ州、テネシー州を中心とするK.K.K.あるいは危険なレッドネックで、後に彼等の多くがショットガンやライフルを持参していたことが分ります。彼等は公民権法案や人種統合政策を推進するケネディ兄弟を「コミュニスト」、"nigger lover"と呼び、連邦政府の手先であるマーシャルたちをも憎悪しました。極端に云えば、南北戦争を再開するような気構えでした。「信じられない」とおっしゃるでしょうが、本当なのです。州都ジャクスンのラジオ局は中継の合間に南軍の軍歌を流し、暴徒を鼓舞したほどなのです。 ケネディ大統領はこの夜、特別に全国向けTV放送でミシシッピ大学問題について触れ、「暴力沙汰を防ぎ平穏にJames Meredithを受け入れてほしい」と要望。しかし、既に暴動は始まっており、反ケネディの暴徒を怒らしただけでした。彼等は付近の車を引っ繰り返して火を放ち、マーシャルに小石をぶつけ、それがやがて煉瓦になり、さらに火炎瓶となり、多数のマーシャルが負傷する事態となりました。州知事の統制下にあったハイウェイ・パトロールの一隊は暴徒を抑えるどころか、「もっとやれ」と云わんばかりに見て見ぬフリの態度を取りました。勤務中でなければ自分も煉瓦を投げたかった連中なのです。待ちに待った命令を受け、マーシャルたちはガスマスクを装着し、催涙ガス弾を暴徒に向けて発射しました。もうもうたる煙の中で暴徒は銃を乱射し、やっと駆けつけた軍隊が深夜過ぎになって制圧するまで暴動は続きました。この夜、フランス人新聞記者一名、町の住民一名が死亡、227名が重軽傷という惨事になりました。学長館の円柱には今なお弾痕がいくつか残っています。 この事件の後、大学当局の方針に愛想を尽かした教授たちが続々辞めて行き、大学の質が問われる事態を招くことになりました。勿論、翌年の入学志願者数は激減し、大学は経済的にも痛手を負ったそうです。James Meredithは一年間マーシャル数名の警護付きで勉学に勤しみ、無事ミシシッピ大学を卒業しました。 2003年現在、ミシシッピ大学には12,287人の学生が在籍しますが、その12.8%は黒人です。Southeastern Conference(アメリカ南東部の12大学で構成されるフットボール・リーグ)中黒人生徒数が最高なのはミシシッピ州立大学で18%、次がサウス・キャロライナ大学で17.7%、アラバマ大学が14%、ミシシッピ大学は四位となっています。1970年から黒人の教授も採用され始め、黒人スポーツ選手の数も増え続けています。その全てはJames Meredithが切り開いた道に始まっているわけです。 ミシシッピ大学事件の5年前の1957年12月、アーカンソー州リトル・ロックのセントラル高校の人種統合に州知事Orval Faubus(オーヴァル・フォーバス)が反対し、州兵を指揮して黒人生徒たちの登校を妨げました。時の大統領アイゼンハワーが空挺部隊を投入して高校を制圧、数カ月駐屯させて黒人生徒たちを護りました。 ミシシッピ大学事件の1年後の1964年、アラバマ州知事George Wallace(ジョージ・ウォレス)が大学の人種統合に反対し、校舎入り口に立ちはだかるという一幕がありました。この時も大統領が軍隊を派遣。 つまり、南部の州知事の多くが憲法や最高裁判決など何とも思っていず、前例がどうであれ公然と政府に盾突く傾向があることが分ります。彼等は勇敢だった南軍兵士の父祖の志を継ぎ、南北戦争を継続したい気でいるのです。当時のミシシッピ州知事Ross Barnettなどはその典型でした。こうした知事たち自身がレッドネックであると同時に、票田のレッドネックの人気取りをしなければ選挙に負けるという事情もありました。勿論それは、黒人の選挙権を制限していた時代だったからのことで、今は黒人にもアピールしなければ知事にはなれません。 私が話を聞いたSusanですが、「一晩中、恐くて女子学生寮で震えていた」そうです。室内にいて、何故催涙ガスに悩まされることになったか?当夜は風向きが悪く、発射されたガスは暴徒側から吹く風によってガスマスクを装着したマーシャルたちを越え、女子学生寮にまで到達したらしいのです。ガスはドアや窓の隙間からでも簡単に侵入し、衣服にも付着してしまいます。Susanは「そんな騒ぎになる大学をやめて、西海岸へでも行って働こうかとまで考えた。しかし、学歴が無くてはいい職につけないので、仕方なく思い止まった」と云っていました。 2002年10月1日、James Meredithが入学手続きを完了したその日から40年を記念する行事が行なわれました。今回の行事は大学とOxfordの町の共催で、「大学と町を救ってくれたマーシャル(連邦執行官)たちや軍人たちに感謝する日」でもありました。彼等は重軽傷を負いながら毅然と勇敢に行動し大学と町を守ったにも関わらず、誰一人メダル(栄誉章)の対象にならなかったそうです。主催者は全員に招待状を発送し、町は参加者に「市の鍵」をプレゼントして感激されました。当時の学生新聞の編集長(女性)、一部始終を目撃したジャーナリスト、カメラマンなどの特別講義もありました。 夕刻、40年前の暴動のその場所で一人$3.00という破格の参加費用のディナーがサーヴされました。黒人主体のゴスペル合唱団の歌声が響く中、予定されていなかったJames Meredith当人が姿を見せ、ディナーを盛り上げました。40年前は彼がたった一人の黒人であった場所に、誰も想像も出来なかった多数の黒人学生や住民が満ち溢れていました。過去の流血の舞台における平和な集いに、今昔の感ひとしおでした。 ディナーの後、主賓のMyrlie Evers-Williams(マーリイ・エヴァーズ・ウィリアムズ)がマイクの前に立ちました。彼女は暗殺されたNAACP(全国黒人地位向上協会)のミシシッピ州代表Medgar Evers(メドガー・エヴァーズ)の未亡人です。Medgar Eversはミシシッピ大学の法学部に入学を希望して容れられませんでしたが、その経験を活かしてJames Meredithの助言者となりました。今回法学部は学内にMedgar Eversの功績を讃える額を作り、記念として奥さんを招んだのです。Myrlie Eversは「当時、私たちがこういう演壇に立つと、先ず聴衆を注意深く"scan"し(さーっと調べ)、次いで向いの窓、周囲の屋上などを"scan"したものだった。公民権運動の活動家たちは常に生命の危険にさらされていた。亡き夫がトライしたことをJames Meredithが完遂し、このような進展をもたらしたことに感謝したい。James Meredithは勇敢だった。しかし、まだ解決されていない問題は沢山ある。皆さん全員が勇敢に問題に取り組んで頂きたい。一人の勇敢な行為が歴史を変えるという実例が、ここにある。特に、若い世代は臆せずに前例のない一歩に踏み出す勇気を持って頂きたい」と述べました。James MeredithとMyrlie Eversによって点火されたロウソクが数千人の聴衆に受け継がれ、'America the Beautiful'の大合唱で式典が終りました。 なお、この事件の4年後、James Meredithは「恐怖への行進」を試み、銃弾を浴びます。この行進は多くの黒人組織に引き継がれて完結しますが、結果として公民権運動のあり方を変質させる要素となります。 2005年10月、ミシシッピ大学は大学構内にJames Meredithの彫像を建てるという計画を発表しました。彫像は2006年5月に完成する予定とのことです。 【旅のメモ(Oxford篇)】Oxfordを訪ねてみようと思われた方は是非御覧ください。 【参考文献】
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