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公民権運動を描いた映画、ドキュメンタリーなどを観て黒人たちの闘いに感動しました。これは主に南部のいくつかの出来事を振り返り、その史跡を訪ね歩いた記録です。
● ジェイムズ・メレディスの「恐怖への行進」 (1966)1966年の「恐怖への行進」というのはキング牧師の"I have a dream"で有名な「Washington D.C.大行進」(1963)や「セルマ→モンガメリ大行進」(1965) に較べて、あまり知られていません。しかし、James Meredith(ジェイムズ・メレディス)の個人的アイデアに端を発したこの行進が、結果的に当時の黒人の政治・社会的運動のターニング・ポイントとなるのです。 1962年にミシシッピ大学への初の黒人学生として転入を果たしたJames Meredithは、いわゆる“活動家”ではありませんでした。彼独自のポリシー、哲学を優先し、本来は孤独な一匹狼だったようです。ミシシッピ大学卒業後、彼はナイジェリアの大学、コロンビア大学などで政治学、法学を学びました。 1966年6月5日、James Meredith(32歳)と彼の友人たち4人は、テネシー州メンフィスからミシシッピ州ジャクスンまでの約220マイル(約354 km)の「恐怖への行進」を開始しました。英語では"March Against Fear"ですので、「恐怖に抗する行進」というのが正しく、彼のミシシッピ大学への転入を阻もうとしたような差別的、暴力的深南部の核へと行進する気概を象徴しています。それはまた、白人たちの攻撃に対する恐怖心から選挙権登録に逡巡している黒人たちの勇気を喚起する行動でもありました。この行進は彼独特の方針で、公民権運動の組織や活動家たちとは無縁の、全く個人的な行動として行なわれました。 James Meredithはルートとしてインターステイト・ハイウェイ(州間高速自動車道)55号線に平行するUSハイウェイ51号線沿いに歩くことにしました。アフリカ探検隊がかぶるような帽子にアフリカ土産の杖という出で立ちでした。ミシシッピ大学転入事件により彼は黒人たちにとって英雄でしたから、沿道の野次馬は結構多かったようです。行進を開始して二日目、ミシシッピの州境から16マイルのHernando(ハーナンド)という町の南にさしかかった時、待ち伏せていたメンフィス在住の白人の散弾銃から発射された三発の鹿撃ち用散弾を全身に浴び、彼はメンフィスの病院に担ぎ込まれました。【詳細1】 キング牧師を頂点とするSCLC(南部キリスト教指導者会議)、SNCC(非暴力学生委員会)、CORE(人種的平等評議会),NAACP(全国黒人地位向上協会)などの主だった公民権運動指導者たちがメンフィスのJames Meredithを見舞いに訪れ、銃弾によって自由への前進を止められるものではないことを示すため「恐怖への行進」を継続させてくれと頼み、James Meredithは了承しました。 この時注目しなければならないのはSNCC(非暴力学生委員会)の動きです。一ヶ月前の組織内選挙で、アラバマ州出身の穏健派の前委員長に代わり、トリニダッド生まれでニューヨーク育ちの戦闘的若者Stokely Carmichael(ストークリィ・カーマイケル)が選ばれました。彼はナショナリスト(民族自決主義者)的見地から、時の大統領Lyndon B. Johnson(リンドン・B・ジョンスン)に不信感を持っており、黒人の運動に白人が混じることも嫌っていました。彼は「恐怖への行進」継続の声明文に、大統領に対する強い主張を盛り込もうとし、その過激な内容と相容れないNAACPが抜けることになりました。Stokely Carmichaelはキング牧師の非暴力運動には不満を感じていましたが、行進のシンボルとしてキング牧師が必要だったため、SCLCとは決裂しないように努めていました。 行進のリーダーたちはJames Meredithが意図したルート(51号線を真っ直ぐ南下)を変更し、その西のミシシッピ川デルタ地帯に分け入り、分散したリーダーたちによって周辺の黒人住民に選挙権登録を呼びかけることにしました。【詳細2】行進は少ない時で30人、多い時で250人ほどになりました。町を通過する時は、住民が町外れまで参加しました。ミシシッピ州知事Paul Johnson(ポール・ジョンスン)の指示で、地元警察も白人たちの暴力行為が起らないように気を配っていて、平和な行進が続きました。 行程の丁度半ばの距離にGrenada(グレナダ)という人口10,000人程度の町があります。行進以前は697人の黒人が選挙権登録しただけでしたが、二日間で1,300人の登録者の増加をみました。これは行進のリーダーたちには大きな成果でしたが、ミシシッピ州知事は激怒しました。単なる行進だと思っていたのに、選挙活動に化けてしまったのです。黒人の選挙権登録者が増えることは、自分たち白人政治家の首を締めることに他なりません。 Grenadaの南西にあるGreenwood(グリーンウッド)という町の出来事が、この行進のハイライトです。この町は過去にも全米に名を轟かせたことがありまして、いずれも人種差別によるものでしたが【詳細3】、今回は様相が異なりました。参加者はどの町でも黒人子弟のための公立学校の校庭や公園にテントを張って寝ることにしていました。ところがGreenwoodの警察は「Broad Street公園にテントを張ることはまかりならぬ」と云い渡したのです。Stokely CarmichaelとSNCCメンバー数人は逮捕され、留置場に入れられてしまいました。六時間後、保釈で出て来たStokely Carmichaelは怒り心頭に発していました。彼はマイクを握って600人ほどの聴衆にこう怒鳴りました、「オレが逮捕されたのはこれで27回目だ。もう留置場に行く気はない。もう留置場には行かないぞ!」そして、"We want black power!"と五回叫びました。聴衆は熱狂しました。「今後、何が欲しいんだと聞かれたら、どう答えるか分ってるだろう?何が欲しい?」聴衆は"Black power!"と応じ、これが何度も何度も繰り返されました。 この一幕は取材に当たっていたマスコミの恰好の素材となり、"Black power"は全米に広まることになりました。Stokely Carmichaelは「"Black power"の趣旨は、他の人種が政治的・経済的圧力団体になっているように、黒人も連携して強い影響力を持つべきだということだった」と後に語っていますが、誰もそうは受け止めず、「武器を取って起て!」という合い言葉に変貌してしまいました。この言葉は、絶えない人種差別、改善されない貧困な生活などに焦りを感じていた全米の黒人たちを刺激し、デトロイト(ミシガン州)やクリーヴランド(オハイオ州)での黒人暴動、カリフォーニア州の黒人武装集団Black Panther(ブラック・パンサー)などを生む契機となりました。 "Black power"は「黒人の白人への反撃」ととらえる白人たちを恐れさせました。多くの黒人の公民権運動リーダーたちも反撥しました。キング牧師は「黒人至上主義は白人至上主義と同じように悪である」と発言し、NAACP代表は「"Black power"は裏返しのヒトラーであり、裏返しのK.K.K.である」と非難しました。 リーダーたちの意見の衝突と反目を孕みながらも、「恐怖への行進」は続きました。目的地の州都ジャクスンまであと20マイルと迫ったCanton(キャントン)での6月23日の出来事は、まさに“恐怖”そのものでした。例によって参加者は黒人用公立のMcNeal小学校の校庭にテントを張る計画でしたが、地元役人はそれを許可しませんでした。Stokely Carmichael【詳細4】は3,500人の参加者の先頭に立ち、裁判所→学校間の抗議の行進を開始しました。学校には61人の州警察官が完全武装で待ち構えていました。1/3の参加者は雲隠れしたものの、2,500人が踏みとどまり、テントを張り始めました。心配したキング牧師はマイクを取り、「我々は州警察官たちと闘うものではない。しかし、ミシシッピの全ての留置場を一杯にする覚悟はある」と告げました。 午後8時30分、ただ一度の警告の後、州警察官たちはマスクを着用し、催涙ガス弾を放ち、銃の台尻で人々を殴り、婦女子を蹴りました。あるリポーターは「警官たちは逮捕するのではなく、懲らしめている!」と伝えました。これは「セルマ→モンガメリ大行進」における「血の日曜日」の再現でしたが、今回は大統領Lyndon B. Johnsonは事件を無視し、連邦司法長官も何のテも打とうとしないのが異なる点でした。キング牧師はLyndon B. Johnsonに失望しました。 今もCantonに住む黒人男性C.O. Chinn(C.O.チン、63歳)は当時25歳で、この町から「恐怖への行進」に参加しました。警官たちの暴行を受けた小学校はとても小さく、そこへ催涙ガス弾をぼんぼん打ち込まれたので大変だったそうです。「もうもうたる煙の中で逃げ惑う参加者の中には、8歳とか10歳の子供もいたので、死人が出なかったのは奇跡だ」と云っていました。 その翌日、退院したJames Meredithが行進に戻り、最終日を前にしたTougaloo College(トゥガルー・カレッジ)での集会には9,000人のサポーターが集まりました。その中にはSammy Davis, Jr.(サミィ・デイヴィスJr.)、Burt Lancaster(バート・ランカスター),Marlon Brando(マーロン・ブランドー)などの顔もありました。 6月26日、日曜日。James Meredithが行進を始めて三週間後、ついに行進はJacksonの州議事堂前に到達。最後を飾るスピーチが始まった頃には参加者は15,000人に膨れ上がりました。 この行進によってほぼ4,000人の黒人が選挙権登録を果たし、推定約10,000人の地元住民が(行程の一部とはいえ)行進に参加したとされています。「フリーダムサマー活動家三人の暗殺」(1964年)以来、久し振りに全米の目がミシシッピに集まりました。そういった意味で、この行進は成功だったと云えましょう。しかし、この行進はまた、指導者たちの理念の違い・対立を浮き彫りにし、この後の公民権運動を大きく変質させて行く出発点ともなったのです。 この時の「史跡めぐり」は本当にラッキーでした。Hernando(ハーナンド)で38年前にJames Meredithの狙撃事件があった場所を探しましたら、二人目に尋ねた博物館の人が、まさにその場所を教えてくれました。Greenwood(グリーンウッド)で"Black power!"集会があった場所を探したら、道を尋ねた三人目は何とその出来事に参加した人で、その場所はBroad Street Parkであることを教えてくれました。 Broad Street Parkで写真を撮っていたところ、黒人の紳士が話しかけて来ました。「インディアナ州から大学生数十人がバスでやって来て、公民権運動ゆかりの場所を見たり、市の主な施設を見て廻る。あんたも来ればいい」とのこと。この人物はDavid Jordan(デイヴィッド・ジョーダン)という州上院議員で、毎年北部の学生たちが「公民権運動ツァー」でGreenwoodに立ち寄ると、歴史的場所を案内する説明役を買って出ているのだそうです、北部の大学のいくつかで「公民権運動ツァー」を実施しているのは知っていましたが、いきなりそれにぶつかるとは思ってもいませんでした。この時のバス・ツァーはインディアナ州大サウスベンド分校の歴史クラスの男女学生たち21人で、白人・黒人両方が参加していました。私も彼らについて歩き、州上院議員の説明を聞きました。この時さらに幸運だったのは、参加者たちがガイドブックとして手にしていた本'Weary Feet, Rested Souls'を見せて貰ったところ、これから行くCanton(キャントン)の州警察官たちによる催涙ガスと殴打攻撃が起ったのは、McNealという名の小学校であると分ったことです。これまでどんな本にも出ていなかった地名なのに、ずばり出ていてびっくり。 'Weary Feet, Rested Souls' そのCantonへ行き、市役所近くに車を停めて、ある博物館の場所を聞いたら、「すぐ近くのヴィジター・センターへ行け」と云われました。そこで上の本に出ていた場所がMcNeal小学校で正しいかどうか確認しようとしたら、ヴィジター・センターは歴史に詳しい人と電話で話し、本の情報が正しいことばかりでなく、さらに38年前の出来事に参加した人を辿る人脈まで教えてくれ、数時間内に取材を終えることが出来ました。ラッキーとしか云い様がありません。 今回、数人の“歴史の生き証人”と話すことが出来ました。しかし、公民権運動に参加したと云っても、現存する人々の多くは当時二十歳前後の若者に過ぎず、キング牧師やJames Meredith、Stokely Carmichaelを見たことはあっても、そうした大物と話が出来る立場ではなかったようです。しかし、運動に参加しキング牧師らと行進したという体験は、今なお彼らの胸に誇らしく記憶されているようでした。この「恐怖への行進」は黒人の選挙権獲得を推進するのが狙いでしたが、それは功を奏し、その後もたゆみ無く黒人投票者の数を増やしています。「恐怖への行進」参加者の一人C.O. Chinnに「このまま黒人の投票者が増え続ければ、黒人の大統領が出現する日も遠くないのでは?」と云いましたら、彼はひそひそ声で「アジア人、ヒスパニック、インディアン、黒人などが連携すれば、今だって政権を取れる」と云い放ちました。この自信をもたらしたものこそ「セルマ→モンガメリ大行進」、「恐怖への行進」などによる公民権運動の成果だったのです。 【旅のメモ(Mississippi北部篇)】Mississippi北部を訪ねてみようと思われた方は是非御覧ください。
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