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公民権運動を描いた映画、ドキュメンタリーなどを観て黒人たちの闘いに感動しました。これは主に南部のいくつかの出来事を振り返り、その史跡を訪ね歩いた記録です。
● ミシシッピ州NAACP代表メドガー・エヴァーズの暗殺 (1963)1963年6月12日、ケネディ大統領はTV放送で今までになく強烈に公民権運動を推進する決意を表明しました。同じその夜、車で帰宅したNAACP(全国黒人地位向上協会)ミシシッピ州支部ディレクターのMedgar Evers(メドガー・エヴァーズ)は、何者かの銃弾を背中に受けて倒れ、家族に近い勝手口へと這いよりながら気絶しました。救急病院へ運ばれたものの、既に出血多量で手の施しようがなかったそうです。 Medgar Eversは1925年にミシシッピ中部の田舎町で生まれました。第二次大戦に米陸軍兵士としてイギリス、フランスに赴き、人種差別の無いヨーロッパ人との触れ合いに感動。帰国してミシシッピに戻ってみると、国のために白人と共に命懸けで戦ったにもかかわらず、黒人は相変わらず二等市民でしかなく、選挙権を得ようとしても白人たちから迫害される状態でした。しばらくしてからミシシッピ州南西部にあるAlcorn College(アルコーン大学)に入り、経営学を専攻しました。優秀な学生であると同時に、彼はフットボールや陸上の選手、学生新聞編集長、生徒会代表、合唱団の一員でもありました。そこへ新入生として入って来た女生徒Myrlie(マーリィ、17歳)と知り合い、それまでプレイボーイとして名を馳せていた彼がピタリと真面目になり、やがて二人は学生結婚。卒業後、Medgar Eversは州北西部駐在の保険外交員となり、毎日ミシシッピ・デルタ地帯を歩き回ることになります。そこで彼が見たものは奴隷にも劣る黒人小作農民の貧しい暮らしであり、幼少から綿摘みなどに駆り出されてロクに教育のチャンスも与えられない黒人青少年の境遇でした。【詳細1】 こうした黒人たちにとっては保険に掛ける金などひねり出せるわけがありません。Medgar Eversは愕然としました。 こうして彼の意識は黒人の地位向上、人種差別撤廃の運動へと傾斜して行きます。1954年に「教育の場の人種差別は違憲」という最高裁判決を勝ち取ったNAACP(全国黒人地位向上協会)は、各州の教育施設への黒人の転・入学を推進していました。それを受けてミシシッピの黒人有識者たちが、州の最高学府であるミシシッピ大学の大学院に初の黒人学生を送り込むことを考えていた時、Medgar Eversが名乗りを挙げます。ミシシッピ大学の中でも名だたる法学部を卒業出来れば、貧しい黒人農民を助ける仕事が出来るに違いない…という理由でした。彼はNAACPの指導のもとに願書を提出しましたが、これは大きな抵抗に出会いました。 先ず、内にあっては学業半ばで妊娠し長男を産んだ妻Myrlieの抵抗です。「私はまだ大学に戻るチャンスもないのに、あなたは大学院へ行くなんて、随分勝手だわ!」と、抗議と非難の日々が続きました。外にあっては、「違憲判決」への反撃を目指して組織されたWhite Citizen's Council(白人市民協議会)を中心とする抵抗で、州の実権を握る人々や新聞などがこぞってMedgar Eversの入学に反対しました。結局、ミシシッピ大学は「保証人の書類が不足である」という理由でMedgar Eversをハネつけます。この時NAACPも裁判闘争に持ち込むことをしなかったため、妻Myrlieは安堵しました。 さらにMyrlieが喜ぶことがありました。NAACPがMedgar Eversの行動力に目をつけ、彼をNAACPミシシッピ州支部の代表(正しくは“フィールド・ディレクター”)に任命したのです。さらに、Medgar Eversの懇願で妻Myrlieも秘書として雇われることになりました。1955年、州都ジャクスンにオフィスを構えると、Myrlieは今までになく2人で過ごす時間が増えたので大喜びでした。しかし、Medgar Eversは「二人とも給料を貰うのだからケジメをつけなくてはいけない」と、お互いに"Mrs. Evers"、"Mr. Evers"と呼びあうことにしたそうです。訪問者がない時、Myrlieが甘えて彼の膝に乗ると、Medgar Eversは冷静に彼女を諌めたとか。 NAACP代表としてのMedgar Eversの役割は、黒人たちに選挙権登録を促すこと、人種差別主義者団体White Citizen's Council(白人市民協議会)の動きを掴むこと、各地で起る黒人殺害事件を調査し裁判になるように仕向けること…などでした。彼はV8エンジン搭載の大型車を購入しました。その猛スピードで白人の攻撃などを振り切ることが出来、黒人を泊めるモテルがない場合は車の中で寝ることも出来るという寸法です。 1957年、2人は白人居住区に近いところに出来た建て売り住宅を購入することにしました。小さな寝室三つ、浴室一つ、小さな台所、リヴィング・ルームという構成で$9,500、頭金は$300でした。普通なら角地の家を選ぶところですが、角地は大きい道路に近くK.K.K.などが攻撃・逃走し易い環境なので避け、両隣りがある家を選びました。 1961年に入り、ミシシッピ州の黒人たちは極めてゆっくりと公民権運動を展開し始めます。先ず、9人の大学生たちが白人専用図書館で座り込み、逮捕されました。その裁判の日には黒人学生たちが裁判所前で抗議活動をし、警察から迫害されました。Medgar Eversはこうした逮捕者の保釈金調達・身柄受け出しに邁進しました。この頃、3人の子の母となっていたMyrlieは、秘書をやめ専業主婦になっていました。嫌がらせの電話はしょっちゅうでしたが、Myrlieが怒鳴り声を出すと、Medgar Eversは「Myrlie、怒っちゃ駄目だ」と自分が出て、白人の差別的言葉に丁寧に応じ、30分でも40分でも忍耐強く相手を説得したそうです。やがて相手も丁寧な言葉になり、親しげな別れの挨拶で電話を終えることもあったとか。 1962年にJames Meredith(ジェイムズ・メレディス)がミシシッピ大学転入に挑戦。Medgar EversはNAACPの弁護士派遣を要請してJames Meredithの裁判闘争を支えました。 市バスでの差別への抗議、動物園での座り込み、メイン・ストリートでの不買運動などに続き、こうした活動に参加した学生への差別待遇に対し数百名の黒人学生たちが抗議のデモを行いました。ジャクスン市長は「デモは許さない。他州からのアジテーターが組織しているもので、地元の黒人たちは現状に満足している」とTVで語りました。Medgar EversはTV局に対し、「市長と同じ時間のスピーチをさせろ」と要求し、承諾されました。彼のスピーチは冷静で説得力のあるものでした。【詳細2】 彼のスピーチには白人ですら感銘を受け、彼らから激励の電話が届くほどでした。しかし、このTV放送はMedgar Eversの顔を知らなかった人種差別主義者たちにターゲット情報を与える結果ともなりました。 Medgar Eversは家の周囲を注意深く点検し、斜め向かいの空き地の忍冬(スイカズラ)の茂みが狙撃者にとって絶好の場所であることを悟りました。彼は妻と3人の子供たちに「カーポートの灯りは常に消しておくこと。車から下りる時は、車を盾にして右側から下りること」と指示。さらに、「家の中でも窓から丸見えになる位置に座らない」とか、「銃声がしたら、すぐ床に伏せる」、「危険が迫ったら子供たちは浴槽に身を潜める」なども決め事としました。ある日、火のついたガソリン缶がカーポートに投げ込まれ、上のような心配が杞憂ではないことを証明しました。Medgar Eversは家の中のあちこちに銃を配置して、どこでも自衛行動が取れるようにし、夜は散弾銃を手元に置いて寝るような状況になりました。 大量の逮捕者の受け出し、黒人に対する暴行や殺人、そういう事件の対処に追われていたMedgar Eversは、朝7時に出勤し、昼食をとる時間もなく夜11時に帰宅するような日々で、過労死寸前の状態となっていました。それに追い打ちをかけるような暗殺者の気配。いつしかMedgar Eversも妻Myrlieも、彼の生命が風前のともし火であることを感じていました。「俺はどうしていいか分らない。しかし、今やっていることを止めるわけにはいかない」と云う夫を抱き締めるMyrlieと共に、2人で絶望的に泣き出す夜もありました。 TV放送から三週間後の1963年6月12日、友人の1人が「Medgar Eversを狙う動きがある。家の周囲を見回る要員を配置せよ」と警告して来ました。Medgar Eversは、子供たちと妻にキスしてから出勤するのが常でしたが、この日、彼はカーポートに立って例の空き地の忍冬の茂みを見つめて何か考えていました。そして、珍しくもう一度家に戻って来て家族全員にキスしてから、やっと出勤して行きました。これが家族にとって生きているMedgar Eversの見納めでした。 その夜、Myrlieは子供たち全員とケネディ大統領のTV演説を見ました。大統領はまるでジャクスンの現状を語っているかのように差別を指摘し、その撤廃を国民に訴えました。Myrlieには大統領が急に身近に感じられ、オフィスでTVを見たであろう夫が帰って何と云うか楽しみでした。彼女がベッドでうつらうつらしていた時、子供たちが「あ、パパだ!」と叫びました。聞き慣れた車の音がカーポートに入って来て、ドアの開く音。その瞬間銃声が轟き、子供たちは訓練通り床に身を伏せました。Myrlieが外に出ると、過労による不注意だったのでしょう、Medgar Eversは「車の左側」に倒れており、彼の周りは血の海でした。隣人たちが駆けつけ、マットレスにMedgar Eversを横たえて病院に運びました。しかし、出血多量で手の施しようがなかったそうです。やがて警察の車が数台やって来て、Myrlieにあれこれ尋ねました。白人至上主義者に夫を殺されたMyrlieは、その時手元に機関銃があれば、警官であろうと何だろうと目に付いた白人を皆殺しにしたかったと述懐しています。 ジャクスンにおけるMedgar Eversの葬儀には25,000名の人々が参加し、柩について行進しました。柩は首都ワシントンに移され、アーリントンの戦没兵士の墓に葬られました。ここでも人種を問わず800人が柩について歩き、沿道の人々は黒人も白人も頭を垂れてMedgar Eversを見送りました。ホワイト・ハウスでケネディ大統領が遺族を慰めましたが、そのケネディも五ヶ月後に暗殺されることになります。 ほどなくして、Greenwood(グリーンウッド)というデルタ地帯の町に住むByron de la Beckwith(バイロン・ディラ・ベックウィズ)なる肥料セールスマンが逮捕されました。彼は過激な人種差別主義者で、銃の愛好家でもありました。忍冬の茂みから後ろのドライヴイン・レストランに続く薮に、高性能照準器付きライフル銃が捨てられていて、それには彼の指紋が残っていました。彼の車がドライヴイン・レストランで目撃されており、その前にこの男から「Medgar Eversの家はどこだ?」と聞かれた2名のタクシー運転手の証言もありました。彼の写真が新聞に掲載されると、「あの男を集会で見た」、「用もないのにNAACPのオフィスへ来たこともある」という声も寄せられました。 1964年1月、Byron de la Beckwithの裁判はジャクスン市を包含するハインズ・カウンティ裁判所で、12人全員白人の陪審員で行われました。求刑は死刑でした。全ての証人尋問が終了し、陪審員退廷の前に、何と現職知事のRoss Barnett(ロス・バーネット)が法廷に現われ、被告席のByron de la Beckwithとにこやかに握手しました。まるで英雄扱い。これは陪審員に予断を与えることになったでしょう(それが狙いだったのでしょうが)。 結局、この第一回公判は「結論に達せず」で、Byron de la Beckwithを保釈にしました。しかし、「殺人でも相手が黒人なら無罪」という“深南部の伝統”ゆえに諦めていたMyrlieや多くの黒人たちは驚きました。6人の白人陪審員が有罪を主張したそうです。ミシシッピは変化しつつあったのです。第ニ回の裁判は4月に行われました。ここでも5人の陪審員が有罪を主張しましたが、再び「結論に達せず」。検察側は「新証拠が発見されるまで、次の告訴はしない」と宣言し、このヤマは休火山となってしまいました。事実上の無罪をかちとったByron de la Beckwithは、$10,000の保釈金でホームタウンGreenwoodに戻り、地元民の熱狂的歓迎を受けました。 この年、故Medgar Eversの遺志が一斉に花開くような変化がありました。学校、図書館、食堂、空港、ホテル、公園、映画館などでの人種差別が廃止され、警察は黒人の警官を採用するようになりました。公民権法案が議会を通過し、黒人の選挙権登録も推進されるようになりました。全て、Medgar Eversが望んだことでした。 1989年、ジャクスンに本社があるローカル紙の記者が、「ある保守的組織の秘密書類によると、1964年の裁判では陪審員を買収した可能性がある」と暴露。Myrlieは転居先のカリフォーニアでこれを聞き、当然、州検事局に三回目の裁判を行うよう要望しました。【詳細3】1994年、最初の裁判から30年後、74歳になったByron de la Beckwithが三度(みたび)被告席に着くことになりました。今度の陪審員の構成は白人4人、黒人8人で、陪審員長の老人(牧師)を除き、大方は若い世代でした。証人尋問が終わり、陪審員たちが討議に入りましたが、かなり声高な白熱した議論が展開したと云われています。二日目の討議に入る前、陪審員長の老牧師は全員に円陣を作って手をつなぐよう頼み、「正しい結論が出せますように」と神に祈りました。そのせいか、彼らは一時間も経たぬうちに全員一致の結論に達しました。この早さを予期せず町中に散らばっていた関係者たちは、大慌てで法廷に駆けつけました。判決は「有罪、求刑通り」でした。Myrlieは手を高く挙げ"Yeah, Medgar!"(やったわ、メドガー!)と叫びました。【詳細4】 1995年〜1998年、Myrlie EversはNAACPの強い要請により、NAACP本部代表という要職に就きました。 終身刑を云い渡されたByron de la Beckwithは2001年1月に病死しました。80歳でした。 2003年3月18日、ミシシッピ州議会はMyrlie Eversを議事堂に招き、故Medgar Eversを讃えました。彼の死後40年が経っていました。 Medgar Eversが住んでいた家は州都ジャクスンの北西にあります。彼の家に近い道路は、現在Medger Evers Blvd.(メドガー・エヴァーズ大通り)となっています。かなり長い通りです。その道路脇に立つMedgar Evers Libraryという図書館の敷地内にMedgar Eversの等身大の銅像が立っています。黒人有志が$60,000の資金を集めて、1991年に建てたものです。こうした事実によって、いかに彼がジャクスンという町にとって重要な存在だったかが分ります。 彼の家はその大通りから少し入った住宅街にあります。不思議なことに、家にも家の近辺にも、そこがMedgar Eversの家だったことを示すサインは皆無です。似たような建て売り住宅が並んでいるので、家屋番号(2332 Margaret Walker Alexander Drive)を知らないとどれなのか見当もつかないでしょう。 映画の撮影に使われたり沢山の人が訪れた後とはいえ、Medger Eversが撃たれ血の海をこしらえたドライヴウェイ(道路からカーポートへの小道)を歩くのは躊躇われました。畏れ多いような気がしたからです。暗殺者Byron De La Beckwithが放ったライフルの銃弾はMedger Eversの胸を撃ち抜いた後、家の窓を通過し壁や冷蔵庫、台所のタイルなどで何ヶ所も跳ね返ったそうです。 Byron De La Beckwithが潜んだ薮は今はもうなく、住宅が並んでいます。しかし、Byron De La Beckwithが見たであろう光景は再現出来ます。車を出たMedger Eversは写真の+のところで、背中を向けた時に撃たれたのです。Byron De La Beckwithは背中を撃ったことにより、常に「卑怯者」と形容されています。 未亡人Myrlieはこの家をTougaloo College(トゥガルー・カレッジ)に寄付しました。映画'Ghosts of Mississippi' がここで撮影された時、家具などは当時Myrlie Eversが住んでいたのに近い状態に復元されたので、そのまま記念館となっています。しかし、常時オープンしているわけではなく、電話で予約しないと中を見せて貰うわけには行きません。まあ、復元された家の中を見てもしょうがないという気はしますが。 Medgar Eversについては二つの映画があります。私の映画紹介は以下をご覧ください。 ・'For Us, The Living'(TV映画、本邦未公開) (1983) 【旅のメモ(Jackson篇)】Jacksonを訪ねてみようと思われた方は是非御覧ください。 【参考文献】
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