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NHK特集 「手塚治虫〜創作の秘密〜」の秘密【おことわり】この記事は、『映画テレビ技術』誌の1986年(昭和61年)1月号のために執筆したものです。同誌編集部の許諾を得て、ここに転載させて頂きます。 ● プロローグ昭和60年は国内・国外ともに、事件・災害の多い年でした。おかげで臨時の「NHK特集」がたくさん作られたため、10月には完成していたこの「手塚治虫〜創作の秘密〜」も、中々陽の目を見ない状態が続きました。ひょっとすると、舞台裏の話が先で、放送が後という具合になる可能性もありますが、ま、その際は PRの一環ということにさせて頂いて、ともかく山ほどある裏話の一部をご披露することにいたします。 1. 番組提案の秘密この番組を担当した小原チーフディレクター(以下、CDと略)は、「NHK特集・寅さんは生きている〜山田洋次の世界〜」など、以前から何本も話題作を作り続けて来た人です。「山田洋次の世界」の路線でもう一本、というのが正直なところでしょうが、またまた「手塚治虫の世界」ではもはや成立しない(各局でやりつくされているので)ということもあり、何らかの新しい斬り口が必要でした。それが、執筆の現場にリモコンカメラを持ち込み、手塚氏の苦悶、苦闘ぶりを描くというアイデアにつながったようです。小原CDの提案文書の一部を見てみましょう。 「これまで“創作の密室”である自宅の書斎には、妻以外の何人たりとも入室が禁じられてきた。ここで手塚氏は作品の構想をねり、絵コンテを描いてきた。今回はその内側に初めてテレビカメラが入り、“マンガの神様”の総てが写し出される。」 この提案文書には、テレビドキュメンタリーの現在というか、少なくとも「NHK特集」の実態がよく出ていると思います。対象が著名人であり、しかも《初めてテレビカメラが入る》という仕掛けがあります。いまや、単に「人間・手塚治虫の魅力を描く」とか、「手塚治虫の創作の原点を探る」では駄目なのです。時事性、話題性がない提案は通りにくいのが現状です。ましてや、寂しいことですが、平凡な人の平凡な日常を描く番組などは、大変出しにくくなってしまいました。 ところで、《密室にカメラが初めて入る》のは本当のことなのです。手塚プロダクションは高田の馬場のマンションの2階にあり、その4階の一室が手塚氏の仕事場です。氏の指示を仰ぎに、マネージャー氏やアシスタント諸氏も仕事場に顔を出しますが、あくまでも玄関まで。手塚氏が原稿を描いている姿は、誰も見たことがないのです。マネージャー氏の言葉、「どんな風に執筆しているのか、この番組の放送を楽しみに待っています」。手塚氏によれば、「この部屋に入られるのは生身の身体を触られるようなもの」とかで、よく了承が得られたものだと思います。「NHK特集」という名前も力があったのでしょうが、「山田洋次の世界」を担当したディレクターなら…という信頼が大きかったようです。 2. 私の秘密小原CDは、素材選びのうまさ、場面の選択眼の確かさなど、秀でた部分をいっぱい持った人ですが、今回の番組では一つだけ欠落している部分がありました。漫画です。小原CDは少年時代から今日まで、一切漫画を読んだことがないと公言していて、手塚氏の漫画も、提案が通ってからやっと3冊ほど代表作を読んだだけということでした。 私はというと、父の買って来た「のらくろ」、兄の購読していた「漫画少年」などに囲まれて育ち、今も「家庭訪問の時にみっともないから、物置にしまって頂戴!」と攻撃されつつも、本棚いっぱいに漫画を陳列している“漫画中年”なのです。手塚氏の自伝、エッセイや、手塚漫画の研究書なども読んでいました。当初小原CDは、ロケ期間中に手塚漫画及び研究書を片っぱしから読もうと決意していたようですが、小生の漫画狂ぶりを知るに及び、あっさり身を引いてしまい、学識(?)経験者としての私を、漫画に関する相談役に任命してしまいました。そういう意味では、この番組、自分で云うのもナンですが、まことにうってつけ、これまでの蓄積(!)が生かされた番組といえます。 3. 密室の秘密密室には足かけ三日、籠りました。毎週の連載漫画の〆切り直前、執筆も最高潮の頃合です。私たちとしては、リモコンカメラの映像がそうもつわけないという先入観がありまして、まあ、番組のイントロで5〜6分もてばいい位のつもりでした。 リモコンカメラは堀口カメラマンが担当しました。設計・開発にも参加していた、最適任者という訳です。手塚氏の机の傍にマイクとマイコン制御のリモコン雲台に乗せたカメラ(3AM)を設置。別室でモニターを見ながら。ラジコン送信機に似たコントロールパネルを用いて、ワイヤレスで信号を送りカメラをオペレート、1インチVTRに収録します。カメラポジションを変えられないのが問題でしたが、宮川ライトマンが鏡を大小何枚も用意し、机の周りに張りめぐらせました。手塚氏を正面から見る位置、手元の俯瞰が撮れる位置など。現在は改良された2号機がありますが、当時の1号機はあまりスムーズに動かず、パンやティルトのたびにキリキリと音がして、沖縄の不発弾処理撮影や狸、水鳥などには有効だったとしても、人間相手でどこまで通用するのか、誰にも予測できませんでした。 初めて密室に入れて頂いた私たちは、いつ「邪魔だ、やはり描けない!」と追い出されるか分りませんので、別室とはいえ会話もヒソヒソ、抜き足・差し足で移動と、大変気を遣いました。この期間の私の役割は、ベータカム・カメラを抱え手塚氏の突然の外出(ラーメン屋行きとか)に備える、手塚氏とアシスタントや編集者達とのやりとり待ちのスタンバイ、折りを見て漫画部の部屋の状況も撮る、こんなところでした。 突如、襖がガラッと開いて、手塚氏が顔を出します。「あ、いけない、やはり追い出される!」と思ったら、「大変でしょう、何かお飲みになりませんか?」てんで、コーヒーの差し入れ。こちらが気を遣う以上に、手塚氏も気を遣われたようです。こんなことが何度かあって、いつの間にか、閉め切っておくべき襖も締め忘れて、執筆中の手塚氏の姿が直接見えるようになってしまいました。こうなると、私もじっとしていられません。不自由なリモコンカメラを補うショットをいろいろ撮り出すことになりました。鏡を利用しても撮影不可能なアングルを主に、心はあくまでリモコンカメラになり切って撮りました。カット数としては、純粋リモコンカメラとほぼ同じ数のカットが混ざって使用されていますが、その判別は先ず不可能のはずです。 この三日間で驚いたことがいくつかあります。一つは全く殺風景な部屋の雰囲気、そして、お掃除のおじさんが穿いているような作業ズボンの手塚氏。両方とも、全く飾り気がありません。もう一つは、絶え間なく鳴り響く音響。テレビ、ステレオ、ラジオ等々。これには酒井音声マンもボー然としておりました。描く漫画の内容に合わせ、クラシック、JAZZ、ミュージカルなどのレコードをかけ分けるのだとか。もう一つ、執筆そのものですが、かなりの部分をアシスタントにまかせるとばかり思っていたら、全く逆なのです。人物は全部、手塚氏。アシスタントにまかされるのは風景、建物、群衆ぐらいのもので、それもかなり細かい注文つき。意にそわなければ、何度も書き直しを命ぜられます。自分が世に送り出すものに対する責任感、そんな気がしました。 張り切って机に向かったところから三日間、ほぼ徹夜の連続、無精ヒゲが生え、疲れ切り、身体の各所の痛みをこらえながらの執筆まで、この密室だけで1本の番組ができるほどの苦闘ぶりが撮れました。こちらはこの三日間で済みましたが、手塚氏の方はこれを毎週やっているのだそうです。60歳とは思えない驚異的なエネルギーとスタミナです。いつどんな表情が撮れるか分らないので、モニターとにらめっこだった堀口カメラマンは、「手塚さんとの根競べだった」と述懐しています。 ● インターミッションロケ開始から二ヶ月、手塚氏も私達もびっくり仰天したのですが、突然小原CDが広島局に転勤になってしまいました。スタッフ一同は、せっかく作り上げたチームワークも崩壊かと暗い気持ちになり、手塚氏の方は、多忙のあまり中々取材に応じられず、しかもアニメの製作も進展していない(本当は、これを軸に番組を構成するはずだったのです)、そんなスローペースの取材が転勤の原因になったのでは? と、大変ショックを受けられたようでした。 幸い、転勤先の広島からその都度小原CDが出張して来るというスタイルで、同一メンバーでロケできることになり、一件落着。私は“学識経験者”から在京の責任者に昇格して、手塚プロとのコンタクト、アニメ部門の監視(時々、進行状況を偵察に行く)、“手塚観”を語る証言者数人の出演交渉等々に追われることになりました。 4. ヤラセ問答の秘密手塚氏の故郷宝塚を訪れて、少年時代の思い出を語って頂くシーンがあります。多忙な日程を割いて頂いてのことなので、このロケは飛行機でご一緒することになりました。ついでに…という軽い気持ちで、「機内で、アニメの絵コンテに手を入れてらっしゃるところなど、撮らせて頂けないか?」と伺いましたら、即座に「ヤラセですか?」と切り返されました。某アフタヌーンショー事件のずっと前の話です。手塚氏は本来サービス精神旺盛な方ですから、思うに“ドキュメンタリーにヤラセがあってはいけない”という大前提をご存知で、「不本意なことはしたくない」という意思表示として使われたのでしょう。 考えてみれば、用もないのに宝塚へ行ったりするのも、厳密に云えばヤラセなのかも知れませんが、ま、こうして何度か「ヤラセですか!」と云われたせいでこちらも注文が出せなくなり、おかげで今回の番組、ヤラセはほとんどありません。小鳥と戯れる手塚氏、放送分ではこれ一ヶ所です。この位は許して下さい。 5. ベレーの中の秘密手塚氏は、私達の前ではずっとベレー帽をかぶったままでした。「寝る時も、かぶってるんです」などと澄ましています(まさか!)。お忍びの時だけはベレー帽を脱ぎ、眼鏡まで変えてしまうのだそうです。先ず気づかれないと自慢しておられました。しかし、カメラに撮られるのは別問題のようです。 国際アニメフェスティバル参加のため、広島駅に到着する手塚氏を撮ろうと待ち構えていました。ベレーなし(!)、下向きに(ということはモロにオツムをカメラに向けて)列車を下りて来られたのです。実は私もご本人とは気づかなかったのですが、ビデオテープにはちゃんと写っていました。このシーン、手塚氏に両手をついて頼まれ、残念ながらカット。カメラに気がつき「撮らないでくれ!」と云う所は使ってもいいということで、そこだけ放送に出ています(写真)。私には、どちらもあまり変りないように見えるのですが、ご本人にとっては大違いのようでした。それにしても、「撮らないで!」というシーンはOKというのは、なんともユニークなケースではないでしょうか? 6. 編集の秘密結局、何度手直ししても、「もっと見たい、もっと増やせ」と云われたのが密室のシーンでした。当初5〜6分などと考えていたのが、三ヶ所に分け、計14分位使うことになりました。これでもまだ足りないと云う人もいるほどです。やはり、創作の現場というのは強いものなのだなあ、と思いました。 密室の量が増えるにつれ、雑誌編集者達の哀感漂う姿、アニメ製作のプロセスや、手塚氏の公式行事、そして長男真(まこと)氏のインタビュー、馬場のぼる氏の手塚観などが、ドンドン落ちてしまいました。結果的には非常にシンプルでストレートな番組になりましたが、その分、人間・手塚治虫、創作家・手塚治虫の姿が鮮明になったと思っています。 ● エピローグ・手塚治虫〜創作の秘密〜私達のインタビューに答えて、「最近、手が震えて丸も満足に描けないんです」という衝撃的な言葉が出て来ます。「時々横にならないと、脇腹が痛くて机に向かえなくなる」というお話もありました。しかし、ついぞ聞かれなかったのが、「もうトシだから…」という言葉です。(「鉄腕アトム」の時代の作品を見ながら)こういう書き方は楽なんですよね、これなら何枚でも描けるんだ。しかし、もうこれでは通用しない時代なんです。だから、ドンドン絵を変えてるんです」。私のように、ものぐさなカメラマンにはとても耳の痛い言葉でした。 60歳にして、悠々自適の生活などには目もくれず、なお第一線で活躍している手塚氏。仕事量を抑えているマネージャー氏の心を知ってか、知らずか、「もっと仕事を取れ!」とハッパをかけるのが常だそうで、運動選手のように走るのをやめるのは倒れる時、という悲愴な観さえします。雑誌の人気投票を(今でも!)気にし、若手漫画家を意識し、時流にも対応し続けようと努力する手塚氏。頂点に登り詰めたが故に、終世、一つの尺度として存在したいという孤高な姿が感じとれます。作家生活40年は単なる折り返し点、苦しくてもあと40年描き続けたいと宣言する手塚氏。こうした旺盛な意欲、前進あるのみの姿勢こそが、「手塚治虫〜創作の秘密〜」ではないか。ずっと年下なのに、私なんかの方がずっと老け込んじゃってるかも知れない、イカン、イカンと考えさせられた日々でした。【了】 自己紹介当Studio Beサイトを主宰する高野英二は、明治大学英米文学科を卒業後、NHK-TVにドキュメンタリーを主に撮影するカメラマンとして、25年勤務しました。1995年(平成7年)アメリカ人女性Barbara Wellsと結婚し、アメリカ南部に移住。今日に至っています。 ・主な担当番組
1977(昭和52)年 終戦記念日特集「空白のカンバス」 ・寄稿
1985(昭和60)年 『放送技術』 12月号「フィルムからビデオへ」
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