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● Montgomey(アラバマ州)のバス・ボイコット (1955)アラバマ州の州都Montgomery(モンガメリ)は人口22万。アラバマ州で長く知事を勤めたGeorge Wallace(ジョージ・ウォレス)は、K.K.K.や保守的有権者の票を集めるため人種差別を貫くことを謳って当選し、就任演説において "Segregation now. Segregation tomorrow. Segregation forever."(今日の人種分離政策は、明日も、明日以降も永遠に続く)とまで宣言した男ですから、黒人差別はひどいものでした。州議事堂前にあるDexter Avenue King Memorial Baptist Church(デクスター・アヴェニュー・キング・メモリアル・バプティスト教会)は Martin Luther King, Jr.(マーティン・ルーサー・キングJr.)が司祭を勤めていた教会として有名です。彼は「公民権運動の父」と呼ばれています。彼を運動の立て役者に押し上げたのは、公営バスの人種差別に抗議したバス・ボイコット運動でした。 市内のある大学の建物の一角にRosa Parks Museum(ローザ・パークス博物館)というのがあり、そこでバス・ボイコットの発端となった事件が見られます。入場料 $5.00で博物館に入ると、先ずヴィデオで1950年代の状況説明があり、続いて別室に誘導されます。そこには当時の古いバスが置いてあって(写真参照)、バスの全ての窓はスクリーンで乗客の姿が映画のように写し出されます。前部には白人運転手も見えます。我々はバスの窓越しに人々の行動を見るわけです。 1955年12月1日、黒人女性Rosa Parks(ローザ・パークス)はデパートの裁縫師としての仕事からの帰り、バスの黒人席に座っていました。次第に満員になり、座れない白人が出て来ました。彼等白人乗客は運転手に不平を云い、運転手は「黒人は席を空けて後部に移動せよ」と命じます。バスはどんどん混んで来て、運転手は再度黒人の移動を命じます。しかし、こういう差別的待遇に憤慨していたRosa Parksは動きません。運転手は法をふりかざし、「あんたを逮捕させるぞ」と脅します。Rosa Parksは "You may do that."(おやりなさい)と応じ、運転手が電話で呼んだ警官達に逮捕されます。 実はこの場面はTV映画'Rosa Parks Story'(本邦未公開)などで観ていたのですが、このようにバスの横に立って、あたかも当夜の野次馬の一人のように一部始終を目撃するというのはまた別な体験です。白人乗客の侮蔑的な不平や白人運転手の威圧的態度を間近に見聞きすると、こちらまで腹が立って来て、Rosa Parksの毅然とした態度に拍手を送りたくなります。 彼女の逮捕に抗議し、Montgomeryの黒人社会の長老、聖職者、NAACP役員などの指導者層が集まり、Rosa Parksの裁判の日に合わせて丸一日のバス・ボイコットを決議します。 【詳細1】 その運動の代表には当時27歳だったキング牧師が推されました。ジョージア州生まれの彼はDexter Avenue Baptist Churchに着任したばかりで友人や知人が少なく、要するにしがらみが無いのがいいというのが理由だったそうです。つまり、彼は最初から大物指導者などではなかったのです。黒人たちは歩いたり、寄り合いの車にぎゅう詰めになったりして通勤し、町には空っぽのバスが走ることになりました。Rosa Parksは罰金刑を受けましたが、黒人指導者層は連邦最高裁に至るまで控訴を続けることにします。同時に大成功だった一日のボイコットを無期限で継続することにしました。ボイコットを開始して一年、1956年 11月に連邦最高裁の「バスの人種差別は違憲である」という判決を得て、【詳細2】バス座席の差別はなくなり、運動は黒人たちの勝利に終わり、アメリカ中の黒人に「やれば出来る」という刺激を与えました。これによりRosa Parksは「公民権運動の母」と呼ばれることになりました。彼女の自叙伝(下図)の表紙はバスに乗っている彼女自身です。 (Dexter Avenue Baptist Churchは、現在Dexter Avenue King Memorial Baptist Churchと呼ばれています) 実はこのバス事件には奇妙な因縁があります。Rosa Parksとこの時の白人運転手は12年前にも出会っているのです。雨のクリスマス・イヴ、Rosa Parksが帰宅のためバスに乗って着席すると、運転手が「黒人は前で運賃を払ってバスを降り、外から後ろへ廻って黒人専用席に座ることになっている。降りて、後ろから乗れ」と強制しました。Rosa Parksは「ひどい雨なのに、また外へ出すことはないでしょう」と抵抗しましたが、運転手の圧力に負けて外へ出ました。運転手は意地悪く両方のドアを閉め、彼女を外に置き去りにして走り去り、Rosa Parksは雨の中を5マイル(8Km)歩いて家に戻ったのです。彼女は、以後この意地悪な運転手のバスには乗らないようにしていたのですが、1955年の運命の日、たまたま彼のバスに乗ってしまったのでした。 この運転手は今年(2002年)亡くなりました。彼はRosa Parksの一件については固く口を閉ざしたままだったそうです。皮肉な考えですが、私はこの運転手は公民権運動を助けた蔭の功労者であったと思います。彼が優しい男でこうまで杓子定規に行動しなければ、公民権運動の初の大運動と進展はなかったわけですから。 なお、Rosa Parksはこの当時友人の勧めでNAACP(全国黒人地位向上協会)に参加し、代表者の秘書的な役割もしていました。日頃から差別に抗する運動の渦の中にいたわけで、主婦、裁縫師という以上に、格段に高い意識を持っていた人物だったと云えましょう。 バスの黒人席は無くなったものの、差別が解消されたわけではありません。バスとバス停の人種差別が撤廃されたことを検証する学生たちの運動にFreedom Riders(フリーダム・ライダース)というものがありました。Washington D.C.から長距離バスGreyhound(グレイハウンド)に黒人と白人の学生多数が乗り込みルイジアナ州New Orleans(ニューオーリンズ)を目指しましたが、アラバマ州各地で人種差別主義者たちの攻撃を受け、バスを爆破されたり参加者が暴行を受けたりしました。 このMontgomeryのダウンタウンのGreyhoundバス・ターミナルにおいても、1961年5月20日、200人もの人種差別主義者(K.K.K.とそのシンパ)が学生たちに暴行を加え、司法長官Robert Kennedy(ロバート・ケネディ)が450人のU.S.マーシャルを差し向けてFreedom Ridersを守らせるという騒ぎになりました。 1960 年にはノース・キャロライナ州の学生達が、白人専用食堂に入ってサーヴィスを要求する"sit-in"(座り込み)を始めました。逮捕されることによって世論を喚起しようという非暴力運動の一つです。1963年には公民権を求める黒人とサポーターの白人合計25万人が首都ワシントンで行進しました。 バス事件後、Rosa Parksはアラバマ州Montgomeryでは職を得ることが出来なくなり、ミシガン州Detroitに引っ越し、そこでずっと暮らしていました。彼女は2005年10月24日、老衰のため亡くなりました。92歳でした。葬儀までの一週間、DetroitとMontgomeryでは、数台のバスの先頭座席に"Reserved for Rosa Parks Only"(ローザ・パークス予約席)という表示を掲げて、彼女の業績を讃えました。 バス・ボイコットについては三つの映画があります。私の映画紹介は以下をご覧ください。 ・'The Long Walk Home'『ロング・ウォーク・ホーム』 (1990) 【旅のメモ(Montgomery篇)】Montgomeryを訪ねてみようと思われた方は是非御覧ください。 【参考文献】
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