Golf Tips Vol. 172

Walter Hagen(ウォルター・ヘイゲン)の身分差別との闘い

女性の入会を拒むゴルフ場の性差別(数年前までオーガスタ・ナショナルがそうだった)、黒人のプレイを拒む人種差別…等はよく知られた事実ですが、あまり知られていないのは1920年代まで、特に英国においてゴルフは王族、貴族、資産家など上流階級のアマチュア優位のスポーツであり、プロは一段下に見られていたことです。ゴルフ・プロ(レッスン・プロ)もプロ・ゴルファー(賞金稼ぎ)もクラブハウスへの出入りは禁じられており、これが英米とも共通でした。ロッカー・ルームが使えないため、プロ・ショップの片隅で着替えなくてはならず、食堂の利用も出来ませんでした。有名なOld Tom Morris(オールド・トム・モリス、1821〜1908)にしても、ゴルフの腕前とコース設計、ゴルフ・クラブを作る技術等を認められていただけで、身分はSt. Andrews(セント・アンドリュース)のクラブ・プロ兼グリーンズ・キーパーに過ぎませんでしたから、正面玄関からクラブハウスには入れなかったことでしょう(入れたとしても裏口から)。

[Hagen]

'The Walter Hagen Story'
by The Haig, Himself (Simon and Schuster, 1956)

Walter Hagen(ウォルター・ヘイゲン、1892〜1969)は、七歳でニューヨーク州ロチェスターのキャディとしてスタートし、20歳でクラブ・プロに昇格したものの、やはりクラブハウスへの出入りは禁じられていました。彼がU.S.オープンに優勝した後、新規造成中のOakland Hills G.C.(オークランド・ヒルズG.C.)のクラブ・プロとして高額の給料で雇われた時、全米一の看板プロだったこともあり、ここではメンバー待遇でクラブハウスへの立ち入りも自由になったそうです。

しかし、他のコース、それも他国のコースともなると話は別でした。第一次世界大戦終了後、1920年のロンドンの東方約100キロの英仏海峡に面したRoyal Cinque Ports G.C.(ロイヤル・シンク・ポーツG.C.)の全英オープンに参加したWalter Hagenがクラブハウスに入ると、クラブのマネージャーが断固として出入りを拒否しました。Walter Hagenの方もプロ・ショップでの着替えを拒否し、運転手付きのリムジン(大型高級車)を雇ってクラブハウス前に駐車させ、車内で靴を履き替え、そこで従者に食事を供させ、No.18グリーンに上着を持った運転手を待機させる…というデモンストレーションを行いました。クラブハウス前に駐車されたリムジンにマネージャーは嫌な顔をしましたが、U.S.オープン優勝者を爪弾きは出来ませんでした。

Walter Hagenが驚くことはまだありました。スコアボード上の氏名がアマチュアは"Mister"(ミスター)誰某なのに、プロだと"W.C. Hagen"と呼び捨てなのです。余談ですが、この時、Walter Hagenは"W.C."が「トイレ」の略であることを知り、以後、ミドルネームの"C"を省くようにします:-)。

この年の全英オープンは、初の海外遠征だったことと慣れぬ強風下でのラウンドを強いられたこともあり、Walter Hagenはブービー賞(全英オープンにそんな賞はありませんが)に価する順位に終わって、がっくり。

その全英オープンで知り合った二人の英国人プロGeorge Duncan(ジョージ・ダンカン、この年の全英オープン優勝者)とAbe Mitchell(エイブ・ミッチェル、この年の全英オープン二位)が、すぐフレンチ・オープンに参加するというので、Walter Hagenも同行を決意。

一流好みのWalter Hagenにとっては全英オープンの宿もひどかったのですが、パリ郊外の宿は蠅はぶんぶん飛び回り、臭くて馬小屋のように思われました。Walter Hagenは英国のプロ二人の同意を取り付け、三人でフレンチ・オープンの主催者との談判に臨みました。「クラブハウスでの着替えと食事を許可して貰いたい。さもないと…」と、Walter Hagenは最後の“さもないと…”に脅迫の意味を篭めました。全英オープン優勝者と二位、それにU.S.オープン優勝者三名の参加は客寄せの目玉の筈でしたから、この三人が出場を取り止めたら主催者側は大打撃です。主催者は渋々「あなた方三人だけ特別扱いで、他のプロには適用しない」という条件で要求を飲みました。クラブハウスに入れて貰ったことなどない英国のプロ二人にとって、これは革命的な出来事でした。

1922年、Walter HagenはRoyal St, Georgee's(ロイヤル・セント・ジョージズ)における全英オープンに初優勝。これは(英国からの移民ではなく)アメリカ生まれのアメリカ人として初めての全英オープン優勝だったので、ニューヨークに船で帰国した彼は音楽隊とブロードウェイでの紙吹雪パレードに迎えられました。

1923年、絶好調だったWalter Hagenは、Royal Troon(ロイヤル・トルーン)における全英オープンに参加。この大会の委員会も、プロたちのクラブハウスへの立ち入りを禁止し、クラブハウスに届くプロ宛の郵便物も、クラブハウスではなくプロ・ショップで受け取るよう指示しました。Walter Hagenは奮闘空しく英国の若いプロArthur Havers(アーサー・ヘイヴァーズ)に一打差の二位。大会終了後、委員会はクラブハウス内での表彰式に優勝者と共に二位のWalter Hagenの出席を要請。大群衆に囲まれてクラブハウス前に立ったWalter Hagenは、人々に向かい次のように語りました。「優勝出来なかったのが残念。私はクラブハウスにおける表彰式に来るよう要請されたが、われわれアメリカ人は郵便物を取りにクラブハウスに入ることすら禁じられている。私は皆さんの御厚意に感謝し、皆さんをパブに御招待したい。私の同僚たちも、そこで皆さんに個々に感謝することだろう。競技委員会が望むなら、そこで表彰式を行えばよい」そう云って、彼は数千の群衆を引き連れて近くのパブに向かい、競技委員会のメンバーと優勝者Arthur Haversだけがクラブハウスに取り残されました。

1924年、Walter HagenはRoyal Liverpool(ロイヤル・リヴァプール)における全英オープンで二度目の優勝。同行していた妻と共にクラブハウス内でのシャンペンでの乾杯に招待されました。彼女は、このゴルフ場のクラブハウスの敷居を跨いだ最初の女性となったそうです。

Walter Hagenは1928年と1929年の全英オープンにも優勝し、当時の英国皇太子(「王冠を賭けた恋」で知られる、後のエドワード八世)とチームを組んで他のプロたちとベスト・ボールを楽しんだりして、皇太子を"Eddie"(エディ)と愛称で呼ぶ仲となるほど親交を深めます。

1929年までには、アメリカでは既にプロたちもロッカー・ルームを使えるようになっていましたが、英国はそうなっていませんでした。しかし、この年の八月、英国のMoortown G.C.(ムーアタウンG.C.)からWalter Hagen宛に「あなたを名誉会員に加え、サイン入りの写真を送ってくれれば、永久にクラブハウスに展示したい」という手紙が届きました。名誉会員ならクラブハウスをフルに利用出来ることになります。Walter Hagenは同様の手紙が英国のプロGeorge Duncanにも届いていたことを知ります。George Duncanは1920年のフレンチ・オープンで、共に主催者に「クラブハウスで着替えと食事をさせろ」と談判をした仲でした。その二人が同時に英国のクラブハウスの正面玄関のバリヤーを粉砕出来たのでした。その素晴らしいゴルフ場を訪れる際、Walter Hagenは常にアメリカや英国のプロをクラブハウス内に伴うようにしたそうです。

英米のゴルフ場が、プロのクラブハウスへの出入りを認めるようになったのはこのようなWalter Hagenの奮闘の賜物だったのです。

(June 01, 2016)

ティー・ペグの発明と普及

今や木製やプラスティックのティー・ペグを用いないゴルファーはいませんが、それが発明された当時はみな馬鹿にして使わなかったそうです。Walter Hagen(ウォルター・ヘイゲン、1892〜1969)は、ティー・ペグを世に広めたのは自分であると証言します。

[Hagen Book]

'The Walter Hagen Story'
by The Haig, Himself (Simon and Schuster, 1956)

「400年余りもの長い間、ドライヴァーを打つ際、ゴルファーはティー・グラウンドに置かれたバケツから少量の砂を摘んで地面に盛り上げてティーとして来た。ティーとして砂を用いるか蹴上げたターフにボールを乗せたりしなければ、クラブで大地を打ってしまうからである。ゴルフ発祥以来、この習慣に人為的変更は全く加えられなかった。

1920年、ニュージャージー州の歯科医でゴルフ初心者だったDr. William Lowell(ウィリアム・ローウェル博士)は、ゴルフの畏敬すべき伝統など意に介さず、彼がドライヴァーを打つ際にボールを乗せるための小さな木のペグを削った。彼のゴルフ仲間はそのアイデアを嘲笑したが、医師の息子は父親を説得してその新案の特許を取らせ、販売させることにした。こうして小さなティー・ペグが製造され、赤く塗られ、"Reddy Tee"(赤いティー)としてゴルフ界に宣伝された。プロ・ゴルファーたちはそれを馬鹿げたものとして否定し、それを贈り物として受け取ることを拒否した。アマチュアたちも一笑に付し、女性ゴルファーたちでさえ博士の発明を軽蔑した。

1922年に、私とオーストラリア生まれのプロJoe Kirkwood(ジョー・カークウッド、1897〜1970)の二人で、全米各地の地元プロたちとエクシビション・マッチをするツァーを行った時、そのティー・ペグをアトラクションの一つに加える決心をしなければ、多分そのティー・ペグの運命は儚いものだったろう。その医師は1,500ドルをちらつかせてわれわれを説得したのだった。

[Reddy Tee]

コネティカット州の某ゴルフ場のプロAlex Smith(アレックス・スミス、1874〜1930)は、われわれが彼のコースでエクシビション・マッチを行った後、20人以上から“馬鹿げた小さなティー”の注文を受け、そのティーを在庫商品として置くようにしたが、一時の流行に過ぎないだろうと感じていた。

Joe Kirkwoodと私は、その派手な赤いティーを耳に挟んで気取って歩き回った。どのコースのどのティーでもそれを用い、拾わずに後に残した。子供たちはそのティーを拾って土産にしようとフェアウェイに突進した。その行為が蔓延したので、クラブ役員たちはティー・グラウンドとフェアウェイにギャラリーを規制するロープの必要性を認めた。この時が、アメリカのゴルフの歴史において、ギャラリー規制のためのロープが使われた最初であった。そしてそれは、この年のU.S.オープンで初めて入場料が徴収されたのと相前後している点が興味深い事実である」

われわれの固定したギャラは一試合500ドルだったが、望めば入場料収入を選ぶことも出来、その場合往々にしてギャラは倍になった。われわれは“馬鹿げた”赤いティーを使い、打った後置き去りにし続け、ゴルファーたちが砂の入ったバケツから遠ざかるのに一役買った。この年の一夏で125回のエクシビション・マッチを行い、1922年までに試みられたゴルフの催しの中で、経済的に最も成功した遠征として評価された」

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私は赤く塗られた木のティーがとりわけ好きですが、何とそれがティー・ペグ誕生の時と同じ色だったとは!全米125ヶ所でアメリカにおけるトップ・プロが赤い木のティーのデモをすれば、そりゃ一般化するでしょうね。ところで、発明した歯科医は大富豪になったのでしょうか?

あるサイトの記事(http://www.nj.com/insidejersey/index.ssf/2010/07/how_new_jersey_saved_civilizat_18.html)によれば、木のティーが最初に発明されたのは1889年で、ボストンの黒人の歯科医George Franklin Grant(ジョージ・フランクリン・グラント)がパテントを取ったものの、彼は商品化はせず、彼と彼のゴルフ仲間が使っただけでした。Dr. William Lowell(ウィリアム・ローウェル博士)のティーは、天辺が凹んでいてボールを乗せ易いのが大きな違いでした。ただし、彼のパテント申請書類が大雑把だったため多数の類似品が現れ、博士はそれらを著作権侵害で訴えることに後半生を忙殺されたそうです。

【おことわり】Reddy Teeの画像はhttp://f.tqn.comにリンクして表示させて頂いています。

(June 01, 2016)

マスル・メモリを信頼せよ

スポーツ心理学者なら「潜在意識に任せよ」と云うところでしょうが、1958年のU.S.オープン優勝ほか全18勝を挙げていて、ゴルフ名誉の殿堂入りしている名人Tommy Bolt(トミィ・ボルト、1916〜2008)は、「マスル・メモリに任せよ」と説きます。スポーツ心理学者Dr. Bob Rotella(ボブ・ロテラ博士)は「マスル・メモリなるものは存在しない」と云っていますが、首をちょん切られた(脳と身体の連携の無い)鶏が庭中を駆け巡ったという話もあるので、始終繰り返している動作は脳が指令しなくても再現出来るのだと思われます。

'How to Keep Your Temper on the Golf Course'
by Tommy Bolt with William C. Griffith (David McKay Company, Inc., 1969)

「次回あなたは自身にこう忠告すべきだ、マスル・メモリに仕事をさせれば、頭に忍び寄る敗北主義者的想念がショットを台無しにすることはないのだ…と。

もちろん、私がマスル・メモリと云う時、あなたに過去充分に練習し蓄積した実績があるという前提で云っている。言葉を替えれば、もしあなたがどうしようもないゴルファーであればマスル・メモリもその範囲内でしか機能しない。奇跡を期待してはいけない。

マスル・メモリが機能するという例は、もしあなたがハンティングやフライフィッシングなどがまずまずの腕前であるなら、その季節が来たらそれらをどう使えばよいかなどと考えたり、季節の合間に練習する必要もなく、銃やフィッシング・ギアを取り上げて問題なく使いこなせるということだ。この価値ある技は、過去に行った絶え間ない型のような動作を通して、必要とあれば脳の助けを借りずに自動的に仕事が出来るほど身に滲み着いていることによる。車の運転も同じである。これらは無意識な動作で、多くの場合一年前の射撃や投げ釣りと同じ素晴らしいレヴェルで達成出来る。

あなたも気づいているように、同じことがゴルフにも当てはまり、長い一時休止の後でも最初の9ホールかそこら、しょっちゅうラウンドしていた時よりうまくプレイ出来たりすることが多い。これは常に嬉しい驚きだが、残念ながら長続きしない。しばらくすると、忘れていた以前のメンタルな危険信号が点滅し始め、あなたのフェアウェイウッドかアイアンがいつも弱点であったことなどを思い出させる。その瞬間まで、あなたは名人のようにボールを打っていたのに、今やトラブルが出始め、シャンクやスライスを打つ昔の状態に戻ってしまう。

 

以上を心に止めておいて、なおかつ失うものは何もないという心境で、『このホール(あるいは後半の9ホール)を、心というものを持たないロボットのようにプレイしてみよう』と自分に語りかけてみられたい。毎ショット、ボールの後ろに立ち、距離と方向をチェックする。そして、ボールに向かってアドレスし、それをクリーンに打つ以外のことを一切考えない。距離や方向、テクニックなど何も考えず、ボールとのコンタクトだけを考えるのだ。【註】これはマスル・メモリに全体の業務を委ね、諸々の想念がショットが滅茶滅茶にするのを防ぐ。ドライヴァーによるティー・ショットなら、訓練された筋肉が責任者となって、好調の時の適切なクラブヘッド・スピードを生み出す。短いチップとか長いパットであれば、筋肉が以前やっていたように巧みに、かつ繊細に業務を遂行する。

【編註】この下線部分は「一打入魂」(05/22)に記した私の考え方と全く一致します。「草を抉(えぐ)る」(tips_168.html)の練習で培ったスウィングを信じ、「ボールとの正しいコンタクトをし、ボールの残像を見る」…これが成功の鍵であると確信します。

ある年配のプロが『ドライヴァーや長いアプローチ・ショットを打つ前に、ほとんど素振りをしないのは何故か?』と問われ、『その素振りが自分にとって一番いいショットかも知れないので、それを無駄にしたくないからだ』と答えたそうだ。あなたのいつもの仲間の素振りを見ていれば分るように、このプロの考えは多分正しいと思われる。あなたの仲間の素振りは、本番でのノイローゼ患者のような突進するスウィングに較べれば明らかに良いものだ。もし彼らがスムーズな素振りのスウィング(それは常に完全にマスル・メモリによって生じる)でボールを打てば、結果は明白にベターなものである筈だ。

つまるところ、ゴルフは筋肉だけのゲームではないという事実に尽きる。ゴルフは常に筋肉コントロールのゲームであり、これは達成し易いのだが、同時に心をコントロールするゲームでもあり、これは重要であるにも関わらず成功しがたい。平均的ゴルファーの大きな間違いはスウィング動作的にスライスを放つことではなく(それは克服可能である)、スライスを打つ傾向によって生じるメンタルな危険要因を認識せず、ゆえにそれを克服出来ないということであり、それが彼の全ての努力を妨げてしまう。スライサーを罰する障害物が待ち構えているホールに来ると、スライサーはパニックに陥り、スライスを防ぐため盛大なプルを放つ。でなければ、他のありとあらゆるミスが起り得る。

気をつけよ。心は身体よりショットを台無しにし易いものだ」

(June 05, 2016)

Nicklaus(ニクラス、20歳)とBen Hogan(ベン・ホーガン、48歳)の初めてのラウンド [Greatest]

Jack Nicklaus(ジャック・ニクラス)は1957年(17歳の時)に全米規模のトーナメントに優勝し、初めてのU.S.オープンを経験したものの予選落ち、翌年もあるトーナメント優勝によってU.S.オープン参加資格を得、この時は41位に入りました。19歳で全米アマに優勝し、またもやU.S.オープンに参加出来たがまたもや予選落ち。そして1960年にコロラド州のCherry Hills(チェリィ・ヒルズ)で開催されたU.S.オープンの最後の2ラウンドは、畏敬するBen Hogan(ベン・ホーガン、1912〜1997)とラウンドすることになります。なお、当時は三日間で72ホールをこなすことが珍しくなく、この年も最終日は36ホールのラウンドでした。

'The Greatest Game of All (My Life in Golf)'
by Jack Nicklaus with Herbert Warren Wind (Simon and Schuster, 1969)

「1960年、私は20歳だった。いま振り返れば、それはとても青臭い20歳だった。その春、私はさして好調ではなかったのだが、U.S.オープンの前週に突如ソリッドにボールを打てるようになった。コロラドに飛ぶ前、オハイオ大のコーチから『Jack、このオープンはかなり期待出来そうだね』と云われた時、私が何と答えたか?『コーチ、今年は勝てそうですよ』偉そうに!前年は予選を通過出来なかったのだが、正直云って今年はトップに立てると確信出来たのだ。好調の数ラウンドが自信を与えてくれる素晴らしさ(20歳の時だからこそだ)。

私は最初の2ラウンドを142で廻り、最後の2ラウンドを同スコアのBen Hogan(ベン・ホーガン)と廻ることになった。少年時代、私のアイドルはBobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)で、彼に会うことを熱望していたのだが、ゴルファーとして成長するにつれ当代随一のテクニシャンであるBen Hoganとのラウンドを切望するようになっていた。その夢が叶ったのだ。われわれはリーダーと七打差だったが、Ben Hoganも私も勝てるチャンスは充分にあった。このコースは難しくなかったし、最初の9ホールはパターの出来如何にかかっていると云ってよかった。

ラウンド前、顔見知りのプレイヤーの何人かが、Ben Hoganとプレイするのは難しいぜと私に云った。彼は冷たいし、コースに他に誰かいるかどうかも気づかないほど自分のゲームの没頭するんだ…と。その日早々に分ったのだが、彼らの話は完全に間違っていた。Ben Hoganは最高のプレーイング・パートナーだった。彼は大して喋らなかったが、私が月並み以上のショットを放つと、"Good shot!"(グッド・ショット!)と心の底から云ってくれた。要するに、私を一人前の同伴競技者として扱ってくれたわけで、私は凄く嬉しかった。彼はまたエティケットだけでなく,全ての細かい点においても極めて礼儀正しかった。その一つは、ティー・グラウンドやグリーンでプレイする人間の周辺視野の外に立つことだ。この繊細さは観客には窺い知れないものだが、ゴルファーには分る。私は彼がフレンドリーで思いやりがあると気づいたのだが、それ以上に、Ben Hoganのように優勝争いに絡むポジションにいながら一緒に楽しくプレイ出来るなどという経験をかつて一度もしていないことにも気づかされた。

36ホール廻るこの土曜日、天候は完璧だった。空は青く、高地の薄い空気は澄み切っており、興を添えるようにそよ風まで吹いていた。午前中の18ホールをBen Hoganも私も69で廻り、首位から三打差となっていた。午後の最終ラウンドになると、10ストローク以内にArnold Palmer(アーノルド・パーマー)を始めとする十人ぐらいが上位にひしめいていた。No.13のリーダーボードによって、私がArnold Palmerら三人を一打差で抑えて首位に立ったことを知ったが、私はU.S.オープン優勝の期待に圧倒されたりしなかった。私がすべきなのはいいショットを打ち続けることで、それに運命を託すことだ(と、私は自分に云い聞かせた)。私はBen Hoganとペアだったことに感謝した。彼がボールに向かう姿を見ると、リアリスティックな身の引き締まる感覚が得られたからだ。

No.13(385ヤード)パー4で、私は9番アイアンのアプローチ・ショットをピンの下方3.7メートルにつけた。パットを成功させれば、他に二打差をつけられることに私はちょっと興奮した。パットは悪くなかったのだが、カップを逸れて46センチほどオーヴァーした。そして、その時私は厄介なものを目にした。私のラインの真上に誰かが正しく修理しなかったボールマークの小さな跡があったのだ。私はその時の自分の想念をよく覚えている。『私はいいゴルフをしているが、20歳の若僧だ』と私は自分に云った。『私は、ボールマークを修理していいかどうか、ルール判定員に聞くのが恐い(修理しちゃいけないと分ってるし)』実際のところは、もちろんこの状況ならプレイヤーにボールマークを修理する権利がある。私はそれを知っておくべきだったのだが、当時はそうでなかった。そして、それは高くついた。私のパットはボールマークを直撃し、その結果ボールを僅かに左に曲げ、カップの左に達したボールはリップアウトしてしまったのだ。バーディ3の筈だったのにボギーの5にしてしまい、4アンダーで首位タイとなってしまった。

No.14でも3パットし、3アンダーとなり首位から脱落。Ben Hoganは七時間前と同じように落ち着いていた。彼は32ホール連続でパーオンさせていたが、ここでついにバーディを射止め、4アンダーでArnold Palmerほか一人と首位タイになった。私はパーで、首位から一打差。

 

No.17(パー5)548ヤードのグリーンは結構大きな池の中の小島となっていて、6メートルほどの水面がフェアウェイとグリーンとを隔てている。強い追い風が吹いていれば、危険は承知で二打で乗せることも考えられるが、小さな島にボールを留めるには、ほぼ完璧なショットでなくてはならない。この日、風は助けとなってくれず、二打目を池の手前に刻み、出来るだけ寄せて短いパットでバーディを期待するしかなかった。それにしたって、ハザードからたった4.8メートルのグリーン右手前に切られたピンの位置では、そう簡単ではない。われわれ全員、これまでのラウンドで、いかにうまくボールをカットし、いかに多くのスピンをかけても、ピッチ・ショットをグリーンで停止させるのは難しいことを学んでいた。私は二打目を池の手前に刻み、ロブ・ショットでピンの向こう3.7メートルに乗せ、そのパットをミスし、3アンダーとなった。

Ben Hoganにとって、No.17は運命を決するホールであることを立証した。彼はフェアウェイ中央で水際から7.6メートルのところへ刻んでいた。彼はこの次の重大な第三打をどう打つか、困難な決断をするためにいつもより時間をかけた。安全にピッチして確実な5を得るか、バーディのために全ての危険を賭けるか?後者はハザードの土手を数ヤード越えた足場の悪いところへボールを運ぶことを意味する。彼は博奕を打つことに決めた。ウェッジ背面を地面にほぼ平らに寝せ、断固としたアクションでバックスピンのかかった低空のカット・ショットを放った。私はそれがぴったり水面を越える完璧なショットだと思ったのだが、ボールは土手を直撃し、ハザードへと逆戻りした。Ben Hoganはここでボギーとしてしまい、優勝争いから脱落した。

きわどい状況でのギャンブルを常に拒絶し、成功率の高いショットを好み、ライヴァルのミスを待つこの人が、この時正しい決断をしたのだろうか?それはその夜の議論の的となり、今もって議論されている。私の意見に価値があるかどうか分らないが、あの状況下ではBen Hoganは正しい行動を取ったと感じている。われわれがあの時点で得た最新情報によれば、数人がBen Hoganとタイ・スコアだということだった(実際にはArnold Palmerただ一人だったのだが)。どのトーナメントであれ、あの状況ならBen Hoganはバーディを狙わなくてはならなかった。

私は、48歳のBen Hoganが、この日の36ホールの後のプレイオフなど想像したくもなかったと考える。ギャンブルに失敗した後、彼は気が抜けて、気力もエネルギーも集中力も完全に失せてしまった。最終ホールで彼は3パットし、7を叩いた。

私自身はBen Hoganのように肉体的に消耗してはいなかったが、集中力は失われていた。トーナメントにおける自分の位置について、明確に考えていなかった。私は最終グリーンの10メートルのチップを1.8メートルに寄せ、そのパットをミスした。トータル282。

15分も経たぬ頃、私はクラブハウスでTVに映るArnold Palmerを見ていた。アナウンサーが、Arnold Palmerが280で上がるには4が必要だと云った。突如私を襲ったのは、私がNo.18であの1.8メートルを沈めていて、Arnold Palmerがエプロンから三打費やしたら、われわれはタイだったという想念だ。急いで付け加えるが、第一にArnold Palmerは見事なチップとパットで、素晴らしいクライマックスを演出し優勝した。第二に、ゴルファーが耽り易い「たら、れば」は完全に馬鹿げているということだ。ゴルフであろうが、何であろうが、起らなかったことは起らなかったのだ。御名御璽。

結論として、私は至福の境にあった。Ben Hoganとプレイ出来て、いいプレイを展開出来た。二位に入り、トータル282はU.S.オープンにおけるアマチュアの新記録だった。それに加えて、この三日間で私はトーナメント・ゴルフに関して、千金の値打ちがある勉強をしたのだ」

(June 08, 2016)

Ben Hogan(ベン・ホーガン)がフック打ちだった理由

Byron Nelson(バイロン・ネルスン、1912〜2006)が明かす、Ben Hoganの過去。

[5 Lessons]

'Shape Your Swing The Modern Way'
by Byron Nelson with Larry Dennis (Golf Digest, 1976)

「1925年、13歳だった私とBen Hogan(ベン・ホーガン、1912〜1997)はテキサス州のGlen Garden C.C.(グレン・ガーデンC.C.)のキャディだった。Ben Hoganは当時(そしてプロとなっても第二次大戦以前は)フック打ちだったが、なぜそうだったかについては興味深い話がある。

その頃のGlen Garden C.C.には今ほど多くのメンバーがおらず、われわれは仕事があるまで練習場でボールを打つのが常だった。われわれキャディは一列に並び、同じクラブでボールを打ち、最も飛ばなかった者が全てのボールを拾い集めるルールだった。その頃、Ben Hoganは華奢な身体だった。散水されるまでは地面は固かったので、もしフックを打てばボールは相当遠くまで転がった。彼はストロング・グリップのかなりフラットな軌道でスウィングすればフックを生じ、ボールを拾う役にならずに済むことを発見した。

それが彼が学び、プロとなっても満足出来る活躍をした方法だ。彼は絶えず練習し、そのスウィングを毎回繰り返せるまで修得した。

戦後間もなく、彼は幾分ウィーク・グリップに変更し、以前よりアップライトにスウィングし始めた。彼はバックスウィング直後に手首をコックし始め、その後クラブを腕と肩で持ち上げるスウィングも始めた。これは後にJohnny Miller(ジョニィ・ミラー)、Tom Watson(トム・ワトスン)らに引き継がれた。その動作は二つの別々なものであったが、それによって彼はドライヴァーを真っ直ぐ打てるようになり、それが彼をメイジャー優勝者にしたのだ」

(June 08, 2016)

続・Ben Hogan(ベン・ホーガン)の精密さ

'And Then Seve Told Freddie…'
by Don Wade {Contemporary Books, 1998, $18.95)

「Ben Hogan(ベン・ホーガン、1912〜1997)が、1954年にBaltusrol(ボルテュスロル)C.C.で開催されたU.S.オープンに参加した時のことだ。彼のキャディは、Baltusrol所属のプロで1928年のU.S.オープン優勝者Johnny Farrell(ジョニィ・ファレル)の若い息子Billy(ビリィ、当時19歳、後にPGAツァー・プロ)だった。

『私がまだ若かったその当時でも、Ben Hoganがどれほど偉大なショット・メーカーであるかを知っていた』とBillyは語る。『ゴルファーなら誰でもBen Hoganの偉大さを知っていたが、私はU.S.オープンで彼のキャディを務めて初めて、彼が実際に素晴らしいプレイヤーであることを理解したのだ。

最終ラウンドのNo.11で彼はドライヴァーを打った。そのボールの地点に近寄った時、私はボールが三つの連続したディヴォット・ホールの傍にあることに気づいた。それらのディヴォット・ホールはどれも、初日、二日目、三日目にBen Hoganが抉(えぐ)ったものだった。その瞬間、私は彼がいかに完璧であるかを悟ったのだ』」

【参考】「Ben Hogan(ベン・ホーガン)の精密さ」(tips_66.html)

(June 08, 2016)

自家製Rockstar(ロックスター)製造法

エナージィ・ドリンクRockstar(ロックスター)は、頻繁に飲むにはちと値が張ります。大手スーパーWalmart(ウォルマート)でのRockstar 16 オンス (473 ml)4本入りパックの価格は約6ドル。私はCrystal Light(クリスタル・ライト)というカフェイン入りドリンクの粉末を湯冷ましに溶かして、空きボトルに入れて飲みながらラウンドしているのですが、それをアップグレードしたらどうか?と考えました。Crystal Lightをベースに、Rockstarの主要成分を別途購入してCrystal Lightに混ぜるのです。

[Rockstar]

アメリカの栄養サプルメント専門通販Swansonvitamins.comで調べると、次のようなRockstar主要構成要素のカプセルが見つかりました。
朝鮮人参エキス   500 mg 100カプセル $3.19
ガラナ種子エキス  500 mg 100カプセル $1.83
タウリン      500 mg   60カプセル $3.59

朝鮮人参エキスはスタミナ増強、ガラナはカフェイン(ガラナの種子はコーヒーの三倍もカフェインを含む)で忍耐力・メンタル能力の向上、タウリンは含流アミノ酸の一種でリゲイン、ユンケル、リポビタンD、チオビタドリンクなどに含まれている恒常性維持・疲労回復に効く成分。これらのカプセルから粉末を取り出してCrystal Lightに混ぜる。Crystal Lightのカフェイン含有量はたった30mgですが、それを17倍にし(Rockstarのカフェイン含有量の倍)、朝鮮人参とアミノ酸の助けによってパフォーマンスをパワーアップ出来るのでは?…という目算。なお、「アミノバイタル・プロ」のアミノ酸含有量は一本4.5 gにつき3,600 mgで、タウリン500 mgではとても太刀打ち出来ません。しかし、アミノ酸効果は神話であるという説もあるので、偽薬としてなら500 mgでも充分かと…(^^;;。

Crystal Lightは「一個買えば一個おまけ」セールで沢山買ったのでタダみたいなもの。Rockstar 4本入りパックは約6ドルですが、もし私の企てが功を奏すれば、10ドル一寸の出費で少なくとも60本のRockstar類似品が作れることになります。

ガラナ500 mgによってカフェインは必要充分なので、Crystal Lightを買う必要もなく、どれでも好きな飲料に混ぜてもいいことになりますが、スポーツ・ドリンクには各種ビタミン類も含まれているので(Crystal LightにもA、C、カルシウムと鉄分が含まれている)、ミネラル・ウォーターに混ぜただけでは類似品にはなりません。

私のゴルフ仲間で自家製ビールを作っている男がおり、クーラーに入れて持って来てラウンド後半になると飲んでいます。一度味見させて貰ったことがありますが、とてもビールとは思えない味でした。オンラインで自家製ビール製法の説明を読むと、道具もいくつか買わねばならず、手間も結構かかるようです。あんなものに色々投資し手間暇かけるなんて信じられません。私の自家製Rockstarは道具要らず・手間要らずで、パフォーマンスをパワーアップ出来ます。非常に建設的だと思いますが、どうでしょうか(^-^)。

自家製Rockstarを本格的に飲み始めた最初のラウンド、ドライヴァー・ショットはいつもより10ヤードほど遠くに飛び、珍しくワン・ラウンドで数回のバーディ・チャンスがありました。その後のラウンドでも集中力が高まっている実感はありますが、いかんせん実力以上の奇跡的プレイが実現するわけはなく、「○ストローク縮まった」などと報告することは今のところ出来ません。

自家製Rockstarの唯一の難点は、ボトルの底の方でやや粉っぽくなること。完全な湯冷ましになる前の人肌ぐらいの時に粉末を混ぜ、よく撹拌するといいようです。また、サプルメントによってやや甘味が薄れるので、液体の人工甘味料を数滴加えています。

【参照】
・「カフェインの助けでスコア・アップ」(tips_170.html)
・「高麗人参」 http://hisatu.xrea.jp/Stamina.html
・「ガラナ」 http://bibi8.web.fc2.com/Life/life_3_15.htm
・「タウリン」 https://welq.jp/2781

【おことわり】画像はcaffeineinformer.comにリンクして表示させて頂いています。

(June 19, 2016)

エイジ・シューターの鑑(かがみ)

エイジ・シュートを目指すゴルファー必読の物語。やはり秘訣はショート・ゲームにあり。

[Commodore]

'The fabulous Commodore Heard'
by Grantland Rice {'The American Golfer,' August 1934}

「彼の名は"Commodore" Bryan Heard(ブライアン・ハード提督、1859〜1942、写真)【註】。フロリダ州生まれでテキサス州ヒューストン育ちの提督は、45歳までゴルフなど見たこともなかった。20年後、彼が65歳の時、彼はエイジ・シュートを始めた。その意味は、65歳でスコア65、66歳で66、67歳で67、68歳で68、69歳で69、70歳で70。全てスタンダードな長さのコースにおいてである。彼は現在75歳で、両眼に白内障を患っていて視野がひどくぼやけ、車の事故で片腕と片脚の骨折を経験しているにもかかわらず、彼は年齢より下の74を記録した。

【編註】“提督”はニックネーム。彼は軍人ではなく綿花の仲介業者で、ヒューストンにおける卓越したスポーツマンの一人でもあった。彼はトラップ射撃の名人であり、テキサスで最も高速なボートの一隻を所有し、他に三隻のヨットも持っていた。彼の頻繁なヒューストン・ヨット・クラブでのレガッタ参加によって、彼は“提督”という渾名を獲得した。

1926年(67歳の時)にテキサス州ダラスに移り住んだ提督は、ゴルフの歴史に残る驚くべきゴルファーである。

先ず第一に、45歳でゴルフを始め、60歳になって以後100回も70を切っているゴルファーを想像してほしい。私(Grantland Rice[グラントランド・ライス])がこのずんぐりした背の低い提督のことを聞いたのは1915年のことだ。その時、彼は56歳だった。それは有名なBobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)という14歳の天才が忘れられない大暴れを開始した年であった。14歳の若僧はSouthern Championship(南部アマ選手権)で56歳の古参兵と激突し、こてんぱんにやっつけられたのである。提督は14歳のジョージアの男の子(であれ誰であれ)には追いつけない早いペースの71で廻って、Bobby Jonesを追いつめたのだった。

『どんな風にゴルフを始めたんです?』と提督に聞いたことがある。それは、彼がポーカーに熱中していた時代に遡る。彼はゴルフをする友人たちを嘲けりながら女々しい暇つぶしから彼らを引き離そうとし、小さな白いボールを打つことで彼に何が出来るかを見せる羽目に陥った。そして嘲ることになったのは四人の友人たちの方だった。『三回スウィングして、全部空振りした』と提督が説明した。『で、町へ戻って各種クラブを一本ずつと三ダースのボールを購入した。帰宅途中、テキサスで初めての(少なくとも私にとって初めての)フォードを見、ゴルフを覚えるんなら車の運転も覚えようと考え、そのフォードも購入した。翌朝、私のボートのエンジンの手入れをしてくれている修理工に、私がハンドルを操縦する間、彼がエンジン・レヴァーを調節するよう頼み、ゴルフ場へと向かった。私は車を停めるや否や、飛び出してボールを打った。そしてわれわれは車に飛び乗り、ボールを追ってフェアウェイをぐるぐる走り廻った。グリーンの上でのドライヴは殊の外快適だった。私がパットする前にわれわれはグリーンを二、三回車で走り廻った。これが私のゴルフ初体験で、コース運営委員会が駆けつけて来るまで、ほぼコースの半分で上のようなことをした。

その後、私は練習とラウンドを定期的に行うようになった。80で廻るのに二年かかり、70を切るにはもう少しかかった。私は常に旧式のベースボール・グリップを用いている。私が入門した時、教えられたのがそれだったし、私はそれがとても気に入っている。それは手と手首にパワーと行動の自由を与えてくれ、より自然に感じられる。

並のグリーンなら、二打でカップの30〜40ヤード近くに乗せるのが難しくないことはすぐ判った。だから私はショートゲーム(短いピッチ、チップ、パッティング)の練習を始めた。40ヤードから二打で上がる賭けまでしたものだ』

提督はこの賭けであなたを打ちのめすだろう。彼は常に低いピッチ・アンド・ランやチップ・アンド・ランのコントロールが良く、低いカット・ショットで着地点の30センチ以内でボールを止めることさえ出来た。それは盛大なバックスピンを得る素晴らしい手の動きがあることを示している。

彼は、最高のパッティング・メソッドは、右人差し指をシャフト下方に向けて沿わせ、望む方向にその指を振ることだと確信していた。75歳で視野に障害があってさえ、カップから3メートル以内では、彼はなお正確無比である。彼がその独特のパッティング・グリップを採用したのは、67歳になってからのことだ。

提督が60歳を越えるまでに、彼はテキサス州のトップ・アマ、さらにはテキサス州に足を踏み入れるトップクラスのプロたちにとってさえ目の上のたん瘤となった。過去数年、一流プロがずんぐりしたテキサス人に出会い、6〜8ストロークを与えて敗北を喫したのは、一人や二人ではない。彼はベスト・アマに混じって様々なトーナメントに参加し、69や70を記録した。メンフィスのトップ・アマが彼に八打のハンデを上げて賭けゴルフをしたことがある。提督は18ホールでそのハンデを一個も使わず、17アップ(その日彼は70を切った)で勝利し、世界で最もびっくり仰天したゴルファーを尻目に引き上げて行った。

彼の卓越した腕前とスタミナを示す例がある。彼が69歳の時、ノース・キャロライナ州アッシュヴィルで、31日間連続で36ホールをプレイした。彼がその土地を離れた時、アッシュヴィルのゴルファーたちはみな破産した。その理由の一つは提督のスムーズでシンプルでイーズィなスウィングである。彼はほぼ常に適切な場所に真っ直ぐ打つ。彼はほとんどスライスやフックを打たない。ボールは矢のように飛ぶ。それはウッドでもアイアンにも当てはまる。

提督の身体の動きはごく僅かに限定されているが、リラックスしており、絶対に強ばったりしない。彼のクラブヘッドを振る偉大な二本の手が印象に残る。彼の緊張から解放されている状態は驚くべきものだ。身体の制限的なアクションは、完璧に活き活きした手と手首に反応する。彼の最も強力な特色の一つは、(横風の際でさえも)1番アイアン、2番アイアンの素晴らしいコントロールをすることだ。これはゴルファーにとっての大きなテストと云ってよい。

アメリカ南西部のゴルファーはみな提督のことを熟知している。彼は20年間にわたって(55〜75歳)、アメリカで最も人気のある市民であることに加えて、ゴルフ界の驚異でもあった。テキサス州は他の州に抜きん出て優れたゴルファーを輩出しているが、提督の記録はそのパレードの先頭を飾るものだ」

"Commodore" Bryan Heardは1942年に85歳で亡くなったそうです。

(June 26, 2016)

Byron Nelson(バイロン・ネルスン)の 現実的ゴルファーであれ

Byron Nelson(バイロン・ネルスン、1912〜2006)は、ヒッコリー・シャフトの時代にキャディをしながらゴルフを覚えましたが、スティール・シャフト時代に突入した時、それを使いこなした最初の人となったことから『モダン・ゴルフの祖』と呼ばれています。彼は1945年にPGAツァー11連勝、年間計18勝を挙げるという記録を樹立し、この記録は今も破られていません。以下の記事は名人Byron Nelsonによる戒め。

[Byron]

'Shape Your Swing The Modern Way'
by Byron Nelson with Larry Dennis (Golf Digest, 1976)

「ゴルファーとして確固とした頼りになる態度を構築する第一歩は、現実的になることだ。生得の能力についてだけでなく、その能力をどれだけうまくあなたが活かしてプレイしているかについて。

あなたは先ず、自分の身体的能力を受け入れるべきである。もちろん、上達への努力をやめるべきではないが、自分に不可能なことをしようとしてはいけない。ロング・ヒッターとしての体格と強靭さを備えていないなら、それを埋め合わせするために、例えばショートゲームの腕を磨くべきである。

いいプレイヤーのパターンを模倣するのはいいことだ。だがその場合、あなた自身の体格と身体的特徴に合致する誰かを真似して貰いたい。身長177センチなのに、191センチのTom Weiskopf(トム・ワイスコフ)を真似しちゃいけない。あなたが大きい男なら、Gary Player(ゲアリ・プレイヤー)を模倣したりしないこと。成功するために、彼がやっているのと同じ方法を用いる必要はないだろうからだ。

いったん自分に役立つスタイルを確立し、それから可能な全てを絞り出せることとなったら、以後それを貫徹しその枠組みの中でプレイする決意をすることだ。あなたはちっともJack Nicklaus(ジャック・ニクラス)に似ていないにも関わらず、かなりいいプレイが出来ることに驚くだろう。

われわれは一年毎に歳を取る。今やシニア・ゴルファーとなった私だから、自分の経験を語ることが出来る。シニアの大きな問題点は、彼の筋肉が以前のように柔軟でなくなったのに気づかない(あるいは認めたがらない)ことだ。彼はもう大きなスウィング動作が出来ず、かつて有していた飛距離は影を潜めてしまった。

だから、シニアはプレイする前にストレッチング体操をし、少し長めに筋肉をほぐすべきだ。そして、出来れば前より多めに練習をする。かてて加えて、いまの自分が達成出来るレヴェルでプレイする適応力を身につけることだ。以前は175ヤード離れたグリーンに5番アイアンで乗せられたとしても、今は5番ウッドかも知れない。だったら5番ウッドを使うことだ。どのクラブを使おうが、乗せられるなら誰にも文句はあるまい。現在の自分の力量に現実的であれば、可能な限り長くいいプレイをする能力を持ち続けることが出来る」

【おことわり】画像はamazon.comにリンクして表示させて頂いています。

(June 26, 2016)

夫を全英オープン・チャンピオンにした妻

Gene Sarazen(ジーン・サラゼン、1902〜1999)は、生涯にメイジャー七勝を含む計48勝を挙げた名人。1935年のthe Masters(マスターズ) No.15でのアルバトロス(ダブル・イーグル)達成や、サンドウェッジを発明した人としても有名。

[Sarazen]

「モダン・ゴルフを生んだ妻」(tips_168.html)は、Byron Nelson(バイロン・ネルスン)の妻Louise(ルイーズ)を讃えるお話でしたが、こちらは出る気もなかった全英オープンに夫を押しやり、優勝させた妻の物語。

'Thirty Years of Championship Golf'
by Gene Sarazen with Herbert Warren Wind {Prentice-Hall, Inc.,1950)

「1932年の全英オープンはPrince's Club in Sandwich(プリンスズ・クラブ・イン・サンドウィッチ)【註】で開催される予定だった。そこは1928年に私が二打差でWalter Hagen(ウォルター・ヘイゲン)に敗れた全英オープンの開催地Royal St. George(ロイヤル・セント・ジョージ)の隣りにあるコースだった」。

【編註】イギリス南東部にあるリンクス・コースの一つ。ここで開かれた全英オープンは、この1932年一回限り。しかし、Gene Sarazenが自分で発明したサンドウェッジを使って優勝した大会として歴史的に有名。

私は、この一筋縄ではいかないトーナメントに勝利することをさほど真剣に考えなくなっていた。私は1929年のMuirfield(ミュアフィールド)、1931年のCarnoustie(カーヌスティ)で失敗していた。他にも顧慮すべき要素があった。1932年には財政が逼迫しており、汗水垂らして銀行に溜め込んだ冬季ツァーの稼ぎを浪費する気分にはなれなかったのだ。

全英オープンに行けと云ったのは妻のMary(メアリ)だった。ある春の宵、私がゴルフ・コースから戻ると、彼女は私を居間に座らせ、彼女の《私はビジネスの話をしてるんだから、真剣に聞きなさいよ!》という彼女のベストの声音で、『Gene(ジーン)、今みたいにあなたがいいプレイをするのって見たことないわ』と猫撫で声で切り出した。『あなたがランニングをしたり、朝昼晩重いクラブを振ったり、葉巻を一日一本に減らしたりして、一生懸命努力してるのを知ってる。最後まで云わせて、Gene。先週私たちの友達夫婦と話して、あなたのゴルフがいま最高で、彼らも全英オープンに行くべきだって賛成してくれたのよ』

『そりゃ大いに結構だ』と私。『だが旅行にかかる経費はどうなんだい?Mary(メアリ)、今は数千ドルをドブに捨てる時期じゃないと思うがね。必要経費も馬鹿にならないからね』 『その点は充分に考えたわ』とMary。『全てを勘案して、全英オープンに行くのがいい投資だという結論に達したのよ』彼女はそこで間(ま)を置き、微笑みながら私の表情を窺った。『あのね、Gene。もう切符もホテルの予約も全部済ませてあるの。あなたがやるべきなのは、パスポートの更新だけ。明日から一週間後には、あなたは船の上よ』」

こうして、Gene Sarazenは最初にして最後の全英オープン優勝への船旅に出たのでした。

(July 06, 2016)

Ben Hogan(ベン・ホーガン)が全英オープンに参加した理由

1953年、Ben Hogan(ベン・ホーガン、1912〜1997、当時40歳)はスコットランドのCarnoustie(カーヌスティ)で開催された全英オープンに初参加し、見事優勝。彼は同年のthe Masters(マスターズ)優勝、U.S.オープン優勝と合わせ、一年の間にメイジャー三冠を達成しました。船で帰国したBen Hoganは、ニューヨークのブロードウェイをオープンカーで行進し、大群衆から祝福を受けました。

[Hogan]

'The greatest year of my life'
by Ben Hogan ('The Saturday Evening Post,' October 17, 1952)

「四月にthe Mastersに優勝した後、私は妻のValerie(ヴァレリィ)に云った、『もしU.S.オープンに優勝したら、全英オープンに参加しようかと考えている』と。彼女はその可能性に興奮したりしなかった。彼女はどんな移動方法であれ乗り物酔いをする質だったし、1949年のRyder Cup(ライダー・カップ)の英国往復の船旅の経験から海外旅行の苦痛を知っていたからだ。だが、彼女が云った全ては『もしU.S.オープンに優勝しなかったら、あなたは全英オープンに出たいって考えるべきでしょうね』だった。これがValerieなのだ。素晴らしい妻、パートナー、仲間、トレーナー、助言者。私の成功の多くは彼女に負うている。彼女の答えは、二人の間の問題を多少なりとも解決してくれたが、なお不明確であり、しばらく後まで私の意向を知る者は誰もなかった。"If I win the U.S. Open"(もしU.S.オープンに優勝したら)、これは、どでかい"If"(イフ)である。だが、究極的にそれを当てにすることは出来ない。私はU.S. オープン開催前に全英オープン参加申し込み書を郵送し、四回目のU.S. オープンに優勝するしないに関わらず、私はスコットランドに向かうであろうことを確信していた。

私が全英オープンに行ったについては、いくつかの理由があった。先ず第一に、その旅は単に彼らの優勝カップを母国に持ち帰ることではなかった。当然ながら、私はどのトーナメントでも参加した以上優勝するために可能な限り懸命にトライする。だが、今度の旅は私にプレイさせようとする多くの人を満足させるためであった。私は、彼らがそこまで私を信じ、全英オープンで私に米国を代表せよと考えるのなら、私はそれに応えるべきだと思ったのだ。

【編註】あるインタヴューでBen Hoganは「Tommy Armour(トミィ・アーマー、1896〜1965)とBobby Cruickshank(ボビィ・クルックシャンク、1894〜1975)らから『英国に行ってプレイし、あなたの優勝記録を完結させるべきだ』と数年にわたって慫慂されていた」と云っています。さらにWalter Hagen(ウォルター・ヘイゲン、1892〜1969)が彼に電話して来て「行くべきだ」と告げたのだそうです。Ben Hoganは「今考えると、私に行けと云った人々は、私が不慣れな土地、コース、天候、異なるサイズのボール…などで、私が打ち負かされるのを期待していたのではないか?」と笑っています。【出典】https://www.youtube.com/watch?v=vbi8MCBpp2U [53' 19"]

第二の理由は挑戦である。かねてからCarnoustie(カーヌスティ)は世界屈指のゴルフ・コースであり、いいスコアで廻るのが難しいと聞いていた。誰もが、アメリカにはない天候が問題であると私に云った。私は腕試しをしたかった。また、英国のスモール・ボール【註】でどれだけやれるか見たかった。私の大きいヘッドのクラブでは、その小さなボールをプレイ出来ないだろうという話も何度か聞いた。そういう難しい条件下で、私が優勝など出来っこないと確信するコメントがあり、私は『出来る』と証明する決意をしていた。それ(反発心)は私の人生の推進力とも云えるもので、長年人々は私があれも出来ない、これも出来ないと云うのを聞いていたからである。私のホームコースのColonial C.C.(コロニアルC.C.)のメンバーでさえ、この年私は優勝出来ない、何故なら私は風の中のプレイが下手だから…と云っていた。

【編註】USGAが1.68インチ(4.267センチ)の規格で統一していたのに反し、1974年まで英国ゴルフ協会は1.62インチ(4.115センチ)のスモール・ボールを認めていました。このボールは米国規格より飛距離が長く、風にも強いとされていました。

三つ目の理由は、USGAと英国ゴルフ協会が(ボールのサイズを除き)同一のルールを施行することで合意したからだ。それが私に影響を与えた一例は、英国側が長年違法として来たセンター・シャフトのパターを認めたことであり、私のパターがそれだったからだ。

かてて加えて、全英オープンのスケジュールが、私がアメリカでプレイすべきトーナメントと重ならなかったからだ。【註】これだけ多くの理由があって行かないのは馬鹿げてるよね?何てったって、私はプロ・ゴルファーであり、トーナメントでプレイするのは私の商売なんだから。

【編註】実際にはPGA選手権(メイジャー)の開催日が、全英オープンと完全にダブっていました。PGA選手権に1946年と1948年の二度優勝しているものの、Ben Hoganは1958年までマッチ・プレイ方式だったPGA選手権を好まず、ほとんどプレイしないのが通例でした。

【参考ヴィデオ】https://www.youtube.com/watch?v=vlga9hA9wb8 [2'31"]

(July 10, 2016)

コース戦略の手帖

いろいろコース戦略のことが ここには書きつけてある
このなかの どれか一つ二つは すぐ今日 あなたの戦略に役立ち
せめて どれか もう一つ二つは すぐには役に立たないように見えても やがて 心の底ふかく沈んで
いつか あなたの戦略を変えてしまう そんなふうな これは あなたのコース戦略の手帖です

'The PGA Manual of Golf'
by Gary Wiren(PGA of America, 1991, $39.95)

PGA of Americaはアメリカのゴルフ・インストラクター(レッスン・プロ)たちの組織であり、この本はそういうインストラクター(レッスン・プロ)たちの教科書として出版されたものです。執筆・編集はマスター・プロフェッショナル(コーチのコーチ)Gary Wiren(ゲアリ・ワイレン)。彼は博士号を持つトップクラスのインストラクター、ゴルフ歴史学者、著作家です。

「・ティーを地面に突き刺した時から、計算機がスタートすると覚悟すること。でなければ、スウィングしてはいけない。

・ゴルファーは、状況を常にコントロール出来るわけではないが、自分が状況にどう反応すべきかをコントロールすることは出来る。勝つとか負けるとかは常にコントロール出来ず、自分のベストを尽くせるかどうかをコントロール出来るだけだ。

・トーナメント・ゴルフは幻想である。仲間との楽しいラウンドと大勢と競い合うラウンドの唯一の違いは、心の中に存在する。

・競技者はいつ一か八かの博打を打つべきか。最悪の結果を検討し、その危険を受け入れる覚悟が出来た時である。

・ショットの前と最中に左脳(認知し、思考する脳)の働きを止め、右脳(情緒的で、創造的な脳)の能力を解き放つことは、熟達したゴルファーに不可欠なメンタル面のレパートリーである。

・可能な限りコースのヤーデージを得て、自分が本当にどれだけ飛ばせるかの理解を深めること。

・ツァーに参加して一年経ったプロたちが『何を学んだか?』と問われた際、最も一般的な答えは『忍耐、プランにこだわること、いつか訪れるバーディと幸運を待つこと』というものだ。

・緊張を解きほぐす最良の戦術の一つは、成り行きを約分し総体的に見ることだ。人生の全体像においては大して重要じゃないことを悟る。リラックスして時間が過ぎるに任せればよい。

・犯したミスに伴う痛みが激しいほど、その印象は鮮明になる。そのリアリティが、プレイヤーがよく失敗する困難な挑戦をする際、脳内でポジティヴなイメージを描くことを妨害する。

・抑制は全てのチャンピオンの秘訣である。抑制は物事を諦めることを意味し、その多くはわれわれがやりたがることである。

・試合の相手は、彼がリードしている時に脆(もろ)いものだ。

・『現在に留まる』ことは広く推奨されるが、滅多に実践されない。

・木や池の周りを廻る中庸のドッグレッグで、ストレートなショットでもほぼ同じ結果が得られる時に曲がり角をカットしようとするのは、ダブルボギーの原因である。

コース・マネジメントのABCは次のようになるだろう。

・ティーアップする際は平坦な場所を選ぶ。
・トラブルがある側にティーアップし、それから遠ざかるように打つ。
・パー3でもティーアップして打つ。
・隣りのホールの横を通過する際、ピンの位置を見て覚えておく。
・プレッシャー下のショットでは、あなたが最も自信のあるショットをせよ。
・異常な天候や地形に直面した時は、冒険を避け自分の能力の範囲でプレイせよ」

【参考】
・「芝とパッティングの研究」(tips_157.html)
・「パットの手帖」(tips_139.html)
・「寄せの手帖」(tips_139.html)
・「バンカー・ショットの手帖」(tips_139.html)
・「練習の手帖」(tips_139.html)

(July 10, 2016)

上級戦略の発見

市営ゴルフ場のNo.1(370ヤード)パー4は、バーディはおろかパーを取ることさえ難しい。私にとってだけではなく、誰にとっても…。レギュラー・ティーから370ヤード。フェアウェは左へ急傾斜しており、右サイドに打たれたボールでさえごろんごろん転がって左のラフへ入ってしまいます。グリーンの前面90%はバンカーで遮られていて、このグリーンも左に傾斜し、さらに奥へと下りになっていて、ボールを止めるのが難しい。

私のティー・ショットの多くは残り150〜130ヤードで、そこからは概ねフェアウェイ左からの大幅な打ち上げとなります。これまでの私の作戦はバンカー手前に刻んで寄せワンを狙う作戦でしたが、残りヤーデージに何ヤード足して打つかが常に問題でした。30ヤード足し、40ヤード足し、「えーい!もってけドロボー!」と60ヤード足してさえ砂風呂に入浴するのが常(多くの場合、結果はボギー)。お手上げでした。

ある夜、ベッドでラウンドのことを考えている時、次のようなアイデアが浮かびました。No.1の二打目で左を狙い、フェードをかけたらどうだろうか?グリーンを左へ外すと身長の倍以上の深い崖で、ブラインドになる崖下からピン傍へ寄せるのは至難の業。ですから、グリーン左を狙うのは、正直云って恐ろしい。うまくフェードがかからなかったら悲劇です。

その翌日のラウンドでNo.1の第二打に、思い切ってフェードを試しました。この日のティー・ショットはフェアウェイ中央近く、残り130ヤードまで飛んでいたので、グリーン・オーヴァーしてもいい覚悟で残りヤーデージに60ヤード足し(私の場合、21°ハイブリッド)、クラブフェースはグリーン中央を狙いつつも、グリーンの10ヤードほど左を向くオープン・スタンス。ボールを右に向かわせたい場合は、やや両手を上げてアドレスするのがコツなので、手の位置を高くし、スタンス・ラインに沿って(結果としてアウトサイド・インの)スウィング。

ボールは、グリーン左に僅かに開けた幅5ヤードほどの花道に届きました。そこから「ピッチングとチッピングの距離調節・完全版」の手法で寄せてパー。

フェードは距離が減るので、60ヤードでなく70ヤード足すべきでした。それだったら、フェードさせたボールはグリーン中央に理想的に着地したことでしょう。

No.6(430ヤード)パー5の三打目は、急な右傾斜の崖の上のグリーンなので、一旦ボールをグリーンに着地させて「やったぜ!」と思っても、ボールはごろんごろん右の崖下へと転落して行くことが多い。そうなると身の丈の倍の高さの打ち上げとなり、どれだけの距離を打てばオンさせられるかの判断が難しく、ピンに寄せようと欲張る半数以上の試みがグリーンに届かず、ころころ転がって自分の足元へ戻って来てしまいます。

この第二打にはフックをかければいいのですが、これだとグリーンの右を狙わなければなりません。意識的に地獄のような右の崖下を狙うのは冒険過ぎます(というか突き抜けた場合に恐い)。で、フックではないが、絶対に右へ行かないボールは打てないものか。ありました。Jack Nicklaus(ジャック・ニクラス)の略式ドローの打ち方です。《クラブフェースを若干クローズにし、身体をターゲットの若干右に揃える》というだけ。これだと大きく右を狙う必要もなく、ストロング・グリップにする必要もありません。フェース角度とアライメントを僅かに調整し、スタンス・ラインに沿ってスウィングすればいい(超簡単で、ミスの恐れが少ない)。

このJack Nicklaus方式は、逆にすれば略式フェードになります。《クラブフェースを若干オープンにし、身体をターゲットの若干左に揃える》だけ。スタンス・ラインに沿ってスウィングする。【注意】この場合、ストロング・グリップは不可。

私はボールの最後の転がりを右に向けたければ略式フェード、左に向けたければ略式ドローを用い始めました。地形によって、ボールがグリーンから遠ざかるのを防ぐのに役立ちます。ストレートに打つだけが能じゃない。こうした工夫が功を奏すると、自分のゴルフがちょっぴり進歩した気になります。

【参考】「Jack Nicklaus(ジャック・ニクラス)の フェードとドローを学べ」(tips_157.html)

 

(July 10, 2016)

Ben Hogan(ベン・ホーガン)の全英オープン(前篇)

1953年、Ben Hogan(ベン・ホーガン、1912〜1997、当時40歳)はスコットランドのCarnoustie Golf Links(カーヌスティ・ゴルフ・リンクス)で開催された全英オープンに初参加し、見事優勝。彼は同年のthe Masters(マスターズ)優勝、U.S.オープン優勝と合わせ、一年の間にメイジャー三冠王を達成したのです。帰国したBen Hoganは、ニューヨークのブロードウェイをオープンカーで行進し、大群衆から祝福を受けました。

[Hogan]

この年の全英オープンは7月8日〜10日(水、木、金)で、金曜日に合計36ホールのラウンドを行うというスケジュールでした。それに先立つ二日間、CarnoustieのChampionship(チャンピオンシップ)コースとBurnside(バーンサイド)コースの二つで資格審査トーナメントが開催され、その合計スコアで参加者が約100人に絞られます。二週間前にスコットランドに到着したBen Hoganは、近くに工場のあるNational Cash Register(ナショナル・キャッシュ・レジスター)社の好意でVIP宿舎に泊めて貰います。

'The greatest year of my life'
by Ben Hogan ('The Saturday Evening Post,' October 17, 1952)

「Carnoustieに着いた時、初めてコースを目にした。それは美しい農場や農地と対照的に、極度に単調な眺めだった。色は茶色と緑の間のミックスだった。木は全くなかった。それは紀元1年から、全く開発されていない土地のように思えた。

私は、車をレンタルし、運転手を雇った。キャディには、以前アメリカのトップ・アマ二人と仕事をしたというプロのキャディCecil Timms(セシル・ティムズ、愛称Timmy、33歳前後)が使ってみてくれと云って来た。後に、彼は仕事は出来ることは判った。ちと神経質ではあったが。

Carnoustieの練習場は、コースのNo.1ティーから1マイル(1.6キロ)離れており、軍の射撃練習場の傍でうるさいことこの上もなかった。私はそこを避け、コースと宿舎の間にある別なコースで練習することにした。私は朝食にベーコン&エッグを食べ、1〜1.5時間練習し、昼食を摂り、午後Carnoustieで練習ラウンドをするのを日課にした。夕食の後は、さして時間がなかったが、妻と私は二回ほど映画を観に出掛けた。

私は練習ラウンドの毎ホールで、二〜三個のボールを打った。スモール・ボール【註】の飛距離は凄かった。控え目に云っても、米国製のラージ・ボールより25ヤードは遠くへ飛び、向かい風だともっと違いが際立つ。私の大きな問題は、スモール・ボールの飛距離に慣れることと、コースでの距離の判断を学ぶことだった。

【編註】USGAが1.68インチ(4.267センチ)の規格で統一していたのに反し、1974年まで英国ゴルフ協会は1.62インチ(4.115センチ)のスモール・ボールを認めていました。このボールは米国規格より飛距離が長く、風にも強いとされていました。

私は米国製のボールより2クラブ短めでいいことに気づきつつ、しかし無意識に不必要にハードに打っていた。何故なら、見た目の距離と打つべきクラブとの組み合わせに違和感があったからだ。私はフェアウェイの様々な場所から、選ぶべきクラブを記憶し、天候と他の要素を考慮に入れ、その記憶によってトーナメントに臨んだ。

風はアメリカのどこかほど強くはなかったが、とても激しく、海からの風はかなり湿っぽかった。例えば、練習ラウンドのNo.1の第二打に、私は8番アイアンの軽いショット以上は必要としなかったのだが、トーナメントの初日には吹き上げる向かい風に抗するため、2番アイアンを打たねばならなかった。それほどの違いがあるということだ。

アメリカではわれわれは“ターゲット・ゴルフ”と呼ぶプレイの仕方をする。木や柵、生け垣などの境界があり、フェアウェイとラフは容易に識別出来る。Carnoustieのティーからだと時々どこでフェアウェイが終わり、どこからラフなのか見分けるのがほぼ不可能になる。色彩的にフェアウェイもラフも同じ色だからだ。

通常、彼らはフェアウェイを月に一度刈り、週に一度グリーンを刈る。このタイプのコースは作るのも簡単だし、維持するのも容易だ。ゴルフは安い遊びで、誰でもプレイ出来る。Carnoustieの1ラウンドのグリーン・フィーは49セントだ。わが国にこのようなフィーのコースが沢山無いのが残念だ。

ヒース(エリカ)とハリエニシダがラフに蔓延(はびこ)っている。シダに似通っているヒースは20〜30センチに伸び、密集している。そこに打ち込んだら、ボールを通常の十倍の強さで打たないといけないが、それでも10ヤード進むのがやっとである。私はたった一度だけ打ち込んだが、幸いにもそれは資格審査トーナメントであった。しかもグリーンに近い所だったので、幸運にもことなきを得た。ハリエニシダは背が高く、腰や頭の高さになることもある刺(トゲ)のある木である。そこへ打ち込んだらどうすべきなのか知らないし、私は考えたくもなかった。私はハリエニシダやヒースからの脱出を練習したりしなかった。なぜなら、そんなところへ何度も打ち込むようでは、勝つチャンスはゼロだと思ったからだ。

どのフェアウェイもうねっており、マウンドだらけで、平らなライなど滅多に得られない。それはバウンス・ゴルフだった。ボールが着地後どっちへバウンドするか見当がつかない。72ホールのラウンドで、私のアプローチ・ショットがピンに向かってバウンドしたことは皆無だった。72ホールもプレイすれば、ピンに絡んで容易(たやす)いパットが残ることもあるものだが、私にその幸運は訪れなかった。

私に云わせると、Carnoustieは"burn-happy"な(小川の利用に熱中した)レイアウトである。大小二つの小川がコースを難しくしている。それに加えて、ラフの中にいくつかの長い堀(あるいは溝)がある。排水溝かも知れないが、私には分らない。私は練習でそれらを一つ一つ見つけ出そうと試みた。そこへ打ち込んだら一打の損になるというだけでなく、その溝は1メートルも深さがあるので、脚を折る危険さえあった。私は、そういう溝のせいでびっこを引いて歩いている人がいないのに驚いたものだ。

チャンピオンシップ・ティーは『タイガー・ティー』と呼ばれている。私は、虎ぐらいしか足を踏み込もうとしない,遥か後方のヒースとハリエニシダの中にあるからだろうと思った。それが違っていたことは、ニューヨークに戻ってBobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)が教えてくれるまで知らなかった。スコットランドでは、バック・ティーを『タイガー・ティー』、前方ティーを『ラビット(兎)・ティー』と呼ぶのだそうだ。

練習の間にトーナメントへのプランを立てた。恐らく犠牲が必要であろう場所、一か八かのチャンスがある場所。二週間の練習で、コースと天候の理由からティー・ショットが最も重要であると確信し、総計283なら優勝すると考えた。タイガー・ティーから7,200ヤードあるCarnoustieでは、極めて長いティー・ショットを打たねばならない。しかも、ヒースとハリエニシダとバンカーを避けて…。だから、私は普通のトーナメントよりも多く、ウッドの練習に時間をかけた」

このように練習に専念し戦略を構築したBen Hoganは、資格審査トーナメントを経て本番を迎えることになります。それは「後篇」にて。

(July 13, 2016)

Ben Hogan(ベン・ホーガン)の全英オープン(後篇)

1953年、Ben Hogan(ベン・ホーガン、1912〜1997、当時40歳)はスコットランドのCarnoustie Golf Links(カーヌスティ・ゴルフ・リンクス)で開催された全英オープンに初参加しました。慣れない異国のコース、スモール・ボール、天候などの違いに備えた二週間の練習を終え、いよいよ舞台は資格審査トーナメントへと移ります。

[Hogan]

'The greatest year of my life'
by Ben Hogan ('The Saturday Evening Post,' October 17, 1952)

「資格審査トーナメントの第一日目は、Burnside(バーンサイド)コースで行われた。No.1ティーに歩み寄った時、アメリカで行われるようにプレイヤー名をアナウンスする責任者がいないことに気づいた。傍らに小さな小屋があり、女性が一人座っていた。前の組が第二打を打つ頃になっても誰も(英国人の同伴競技者でさえも)ティー・オフについて何も云わない。で、もう頃合いだと感じた私は、ティー・グラウンドに上ってボールをティーアップした。見物人の何人かが首を横に振った。私が誰かの説明を待っていた時、NO.1のフェアウェイ沿いの線路に列車がやって来て、三回の短い警笛を鳴らして停止し、運転士が手を振った。私は新聞報道のように『あっちへ行け』という風ではなく、単純に彼に応じて手を振った。その時、私は『ビー、ビーッ』という警笛を耳にした。小屋の中の女性が鳴らしたもので、それがティー・オフの合図だったのだ。フェアウェイの両側に並んだ人々が頷くように頭を振り、今度こそ打っていいということを示していた。後で妻のVarelie(ヴァレリィ)は、私が吹き出しそうな顔をしていたと云っていたが、まさにその通りだった。全てが新鮮で可笑しかったのだが、彼の地では完全にノーマルだったのだろう。

資格審査トーナメントの間に判ったことだが、キャディのTimmy(ティミィ)【註】は私のクラブを王冠についている宝石のように磨き上げ、私のゴルフ・シューズも家に持って帰って磨いてくれた。いいキャディなのだが、私のゲームが難しい局面にさしかかると、彼は極度に動揺した。彼は神経が昂るとお喋りになり、その都度私は彼のお喋りをやめさせねばならなかった。私が長いパットをする時、彼は垂れた頭を両手で抱え、見ようとしなかった。明らかに私のパットへの信頼の欠如である。多くの場合、私自身も見ようとはしなかったが…。

【編註】図のHoganの後方でバッグに手を置いているのがTimmy。

資格審査トーナメント初日のBurnsideコースでは70で廻り、二日目のChampionship(チャンピオンシップ)コースでは75、計145は楽々突破だった。多くの人が、気楽に廻ったのか?と私に尋ねたが、次のように云っておこう。私は常にベストを尽くすものの、本当のトーナメントの競争心の高いレヴェルまで興奮出来ないのだ。資格審査の結果、91人で全英オープンを闘うことになった。

トーナメントの初日は風が強く吹き荒れた。私は73で廻った。パット以外は満足出来るプレイであった。いつも第一ラウンドの後はそうなのだが、私は疲れを感じた。トーナメント初日は、私にとって最も疲れる日のようだ。

未だ戦後の復興途中にあり、配給制度によって食べ物は制限されていた。しかし、果物は豊富で私のエネルギー維持を助けてくれた。私はフルーツ・ドロップをバッグに入れ、エネルギー補給のため頻繁に舐めた。私はキャディのTimmyにも分け与えたが、第二ラウンドを終えるまでにTimmyは自分の分も私の分も全部たいらげてしまった。何回か彼に対する警告した後、ついに私は『ドロップに手を出すな』と申し渡した。

二日目、私はいいプレイをしたと感じたが、またもやパットが沈められず71であった。トータル142の首位の英国勢二人と二打差だった。スコットランドのギャラリー(英国全土からやって来た人々)は、とても礼儀正しく、ゴルフを良く知っていた。彼らは妻のVarerieと私を丁重に遇してくれた。

三日目の午前の第三ラウンド、私は70(計214)でRoberto De Vicenzo(ロベルト・デ・ヴィセンゾ、アルゼンチン)と首位タイになった。

最後の三ラウンドは断続的な雨に見舞われたが、風は初日ほど激しくなかった。午後の最終ラウンド前の昼食時、私はこれからどうすべきか考え続けた。私は最初のプランを幾分か変更すべきだと感じた。トーナメントも押し詰まってプレッシャーも高まり、前夜インフルエンザに罹(かか)って身体的には好調ではなかったものの、あと1ラウンドを残して首位タイという興奮が身体の不快さを帳消しにし、実際には午後の最終ラウンドへと勢い良く突入出来る感覚を抱いていた。

いつもそうだ。私の血液の流れは、身体から余分のアドレナリンを得ているようだ。最終ラウンドではそれ以前よりボールを遠くに打つことを知っているので、私はどのショットにおいても意図的に短いクラブを選んだ。例えば、最初の三ラウンドで普通5番アイアンだったところを、最終ラウンドでは6番アイアンにしたのだ。

私がオリジナルのプランを変更するのは唯一最終ラウンドだけであり、今回そうしたのは私は窮地に陥っており、出口を求めて闘わねばならない状況だったからだ。私が先行している場合なら、他の連中のミスを待てばよい。しかし、Roberto De Vicenzoはタフな男であり、かなりの飛ばし屋だった。彼は三つのフェアウェイ・バンカーを越えるティー・ショットを打てるし、第二打には誰よりも2クラブか3クラブ短いものを打てるという強みがある。彼は私の組の6〜8ホール先でプレイしていた。私がNo.4でプレイしていた時、私と一打差だった後方のAntonio Cerdá(アントニオ・セルダ、アルゼンチン)がバーディを射止めた。私は幸運にもNo.5でバンカーからチップイン・バーディを達成。その直後、Roberto De Vicenzoは1オーヴァーで最後の9ホールに向かったと聞いた。私は、ケッタッキー・ダービーで、ついに鼻の差で先頭に立った騎手のような気分だった。

午後の最初のハーフは34だった。No.16かNo.17でプレイしていたRoberto De Vicenzoはまだ1オーヴァー。私は後方のAntonio Cerdáだけ心配すればよかった。No.10のティー・ショットでフェアウェイに迷い込んだ犬を打ちそうになるハプニングがあったが、そこをパーで切り抜け、No.13(パー3)でバーディ。Roberto De Vicenzoは1オーヴァー、後方のAntonio Cerdáも1オーヴァーとなり、この時点で初めて私は、馬鹿げたミスを犯さない限り勝利出来ることを確信した。

幸い、私は馬鹿げたミスを犯さず、最終ラウンドは4アンダーの68、トータル282(二位タイに四打差)で初の全英オープンに勝利した。誰かが、68はCarnoustieにおける新記録だと教えてくれた。私はラウンド中、記録のことなど全く考えていなかったのだが。

私は勝つためにプレイする。そして、神は目的があって私に勝たせてくれるのだと思う。その目的とは、病身だったり、怪我をしていたり、身体に故障のある人々に勇気を与えるものだと考える」

[icon]

最後の一行は、瀕死の交通事故から不死鳥のように蘇ったBen Hoganだからこその言葉です。

【参考ヴィデオ】https://www.youtube.com/watch?v=vlga9hA9wb8 [2'31"]

(July 17, 2016)

テストステロンで飛ばす

テストステロンは男性ホルモンの一種で、筋肉の増加作用がある。

'Need more T?'
by Ron Kaspreske ('Golf Digest,' May 2015)

「スポーツ医学専門家でPGAツァー・プロ数人のコンサルタントも務めるAra Suppiah博士は、『健康な男性45〜55歳のテストステロン数は500かそれ以上である。女性もテストステロンを生成するが量は極めて少なく、通常18〜70。加齢と共にテストステロン値は減少する。さらに悪いことには、男性は多くの場合不健康な生活習慣を身につけ、減少傾向に追い打ちをかけてしまう。ボールを遠くに飛ばすには、ライフスタイルを変えるべきだ』と云う。

《テストステロン値を増やす10の方法》

1) ウェイト・リフティング

多くの研究が、スクァット(膝の屈伸運動、右のヴィデオ)やベンチプレスなどの多関節トレーニングを実施することによってテストステロン生成を活性化出来ると報告している。

2) 太陽に当たれ

一日20分、直射日光に当たると充分な量のヴィタミンD3を生成出来る。このヴィタミンは骨の健康と神経筋の機能を改善することで知られている。

3) 快眠すべし

シカゴ大医学部の研究者たちは、一週に一度睡眠が五時間以下の日がある男性は、快眠する男性より15%もテストステロン値が低いことを発見した。

4) 燃焼を減らせ

飲み過ぎやアレルギーの放置、過食などの不健康な習慣は、身体に慢性の燃焼状態を継続させ、テストステロン生成を妨げる。

5) 糖分を避けよ

精製された炭水化物(甘く加工された食品)は、血糖値調整装置としてのインシュリンの役割に抵抗する。そうなるとテストステロンの生成もスローダウンする。さらに高度不飽和脂肪性食品(食用油で揚げられたもの)は、テストステロンの新陳代謝を妨げる。

6) グルテンを避けよ

グルテンは多くの穀物に含まれるタンパク質で、一般的にはベーグル、シリアル、サラダ・ドレッシング、マヨネーズなどとして食される。このタンパク質への過敏症は、内蔵の炎症とパワーを失う副作用を引き起こす。

7) オメガ3脂肪酸を摂れ

アヴォカド、アーモンド、オレガノなど、どれでもよい。これらオメガ3脂肪酸は、テストステロンの生成を含むホルモンのバランスを取る機能がある。

[Brazil Nuts]

8) 豆類を食せ

豆類あるいはマグネシウムを含む食品を食べる。このミネラルはスポーツマンにもデスクワークをする人にも、テストステロン値増強に役立つ。

9) ブラジル・ナッツを齧(かじ)れ

セレン(抗酸化酵素の構成成分として、また甲状腺ホルモンを活性化する酵素の構成成分として重要なミネラル)と善玉コレステロールを摂取するため、一握りのブラジル・ナッツ(南米原産の高木の種子、右図)を齧れ。テストステロンを生成する精巣の細胞(ライディッヒ細胞)の機能が改善される。

10) 薬草も役立つ

マカ(maca、南米ペルーに植生するアブラナ科の植物。根を薬用ハーブとする)やトンカットアリ(tongkat ali、東南アジアに自生するニガキ科の灌木、根を砕いて薬用とする。別名「マレーシア人参」)などのエキスを服用する。どちらも、広くテストステロン増強に役立つと信じられている」

【おことわり】ブラジル・ナッツの画像はwikimedia.orgにリンクして表示させて頂いています。

(July 13, 2016)

猿真似ミス防止に、ミラー・ニューロンを知るべし

"Monkey see, monkey do."(マンキィ・スィー、マンキィ・ドゥー)という英語のフレーズがあります。例えば、誰かがゴロを打つと、次のプレイヤーもゴロを打ってしまうという、文字通り猿真似に堕してしまう現象です。以下の記事を読めば解るように、これには純然たる科学的根拠があったのです。この記事の筆者はJordan Spieth(ジョーダン・スピース)のコーチCameron McCormick(キャメロン・マコーミック)。

'Raise your game by doing nothing'
by Cameron McCormick with Max Adler ('Golf Digest,' September 2015)

「ミラー・ニューロンの発見について論争は存在するものの、それがわれわれのゴルフを助けてくれることは確かである。

脳には1,000億ものニューロン(神経細胞)が存在する。鼻の頭を掻くとかゴルフ・スウィングをする際、これらのニューロン多数が迅速な連続性で火花を散らす。その痕跡は人の署名のようなもので、個々には異なっているのだがそう大きく変わるものではない。プロの署名は基本的に美しい。

あなたが、誰かが何かをする(例えば鼻を擦るとか、ゴルフ・スウィングをする)のを単純に見ている時、あなたの脳のニューロンも同じ動きをしているような連続性で点火する。少なくとも、(実際に行動する人の)20%の量のニューロンが活発に動く。これらはミラー・ニューロン【註】と呼ばれる。それはやや薄いインクではあるものの、同じ署名を書く。

【編註:’Wikipediaよりの引用】Mirror neuron(ミラーニューロン)は霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすること。

その影響は驚くべきものだ。次のようなことがミラー・ニューロンによって説明可能となる。手術によって片脚を除去した人が、もはや存在しない脚に幻肢痛を感じる場合、誰かが脚にマッサージするのを見ることで、苦痛を軽減出来る。それはまた、ネクスト・バッターズ・サークルで前打者がヒットを打つのを見ると、次打者もヒットを打つ可能性が高いという事実をも説明するものだろう。

身体的レヴェルでは、われわれの心は絶えず他者とコミュニケートしており、お互いに学んでいるということを意味する。あたかも巨大な一つの脳が、われわれ個々の皮膚によって隔てられているかのように。

では、これがどうゴルフに関連するのか?われわれは上級者とプレイするとうまくプレイ出来たり、真剣味のないゴルファーとプレイするとお粗末なプレイをしたりする。Jordan Spieth(ジョーダン・スピース)は十代の頃これに気づき、うまい人のプレイだけに注目し、その他は無視するようになった。こんなことは常識のように思えるだろうが、ちゃんと科学的裏付けがあったのだ」

 

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つまり、下手っぴのスウィングを真剣に見守ってはいけないのです。それが"Monkey see, monkey do."症候群を引き起こす原因です。もちろん、同伴競技者のマナーとして彼のボールの行方は見守らなければいけませんが、彼のスウィングは見るべきではない。頼まれてもいないのに「彼のトップの原因を発見して教えてやろう」…などというお節介は断固やめるべきです。彼のトップがこちらに伝染してしまい、教えるような立場でなくなってしまいます(>_<) 。

Sam Snead(サム・スニード)は、Ben Hogan(ベン・ホーガン)がスウィングする時、横を向いて見なかったそうです。その理由はBen Hoganのスウィングが彼のテンポより遥かに急速なので、その影響を受けたくなかったためでした。逆に、早過ぎるテンポで「右や左の旦那さま」の人は、スムーズでステディなプレイヤーのスウィングを見守れば、いい結果が得られるかも知れません。

(July 20, 2016)

'Tin Cup'(ティンカップ)証言集

'Golf Magazine'(ゴルフ・マガジン)誌が、映画'Tin Cup'(ティンカップ、1996)公開20周年記念の特集を組んでいます。その中のめぼしいところを拾ってみました。

この映画の監督Ron Shelton(ロン・シェルトン)は野球映画'Bull Durham'『サヨナラゲーム』(1988)、バスケットボール映画'White Men Can't Jump'『ハード・プレイ』(1992)などスポーツ映画の話題作を作っている人。彼は脚本家John Norville(ジョン・ノーヴィル)と、テキサス西部を舞台にしたゴルフのハスラー(賭けゴルフ師)の物語を共同執筆中でした。たまたま二人は、遠く離れたそれぞれの家で、1993年のthe Masters(マスターズ)のTV中継を見ていました。最終日No.15(パー5)で首位を行くBernhard Langer(ベルンハード・ランガー)に三打差で残り三ホールという状況で、追う立場のChip Beck(チップ・ベック)は何故か二打目を刻む作戦に出ました。それを見た監督Ron Sheltonと脚本家John Norvilleは直ちに電話で話し合い、「おれたちの主人公は絶対に刻まない(刻むことが出来ない)奴だ!」ということで合意しました。

【おことわり】右のYouTubeヴィデオは静止画+音楽のみです。

'The oral history of Tin Cup'
by Chris Nashawaty ('Golf Magazine,' August 2016)

「監督Ron Shelton:脚本を書き出した時、われわれは主人公を誰に演じさせるか決めてなかった。20ページ目を書いている最中、脚本家John Norvilleと私は目を見交わし、『これはKevin Costner(ケヴィン・コスナー)だ!』と云った。私は1988年にKevin Costner主演の'Bull Durham'『サヨナラゲーム』を撮っていた。

俳優Kevin Costner:当時、私は"Waterworld'『ウォーターワールド』(1995)を終え、離婚し、落ち込んでいた。脚本家John Norvilleと釣りに行っている時、彼が監督Ron Sheltonと共にゴルフの映画を考えていたのは知ってたが、興味はなかった。私はゴルフにハマってなかったし、No.1のティー・グラウンドで三回も四回も全部右の方へ打つんだから、ひどいもんだった。だが、Ron Sheltonと仕事をするのが、最高のセラピーだろうと悟ってはいた。彼なら失敗しないように支えてくれるからだ。

女優Rene Russo(レネ・ルッソ):私はゴルフのことなんか何も知らなかった。これはとてもいい役だったので、ちょっと怖じ気づいていたのを覚えてる。絶対やりたいと思った初めての映画だったから、凄く緊張した。この映画に飛び込んだら、相手役はミスター・チャームKevin Costnerじゃない!彼との本読みで、彼がとてもいい感じなので、私も乗せられたわ。

監督Ron Shelton:主役のキャディを勤めるRomeo(ロミオ)の役は、メキシコのスターも含めてラテン系の男優多数をオーディションした。Cheech Marin(チーチ・マリン)はオーディションに現われた最初の俳優だった。私は彼を心から追い出すことが出来なかった。

俳優Cheech Marin:オーディションの後、数ヶ月も何も云われなかったので諦めかけていた。これはA級の映画だったし、ハリウッドの大物たちと肩を並べるチャンスだったから是非やりたかった。

 

監督Ron Shelton:Kevin Costnerのライヴァルには、実際にゴルフ・スウィングが出来る尊大な感じの役者が必要だった。Alec Baldwin(アレック・ボールドウィン)ならそれに相応しかった。しかし、当時彼の妻で女優のKim Basinger(キム・ベイシンガー)は出産間近だった。誰かがDon Johnson(ドン・ジョンスン)の名を挙げた。彼は実際にプレイ出来たし、クランクインが迫っていた。

俳優Don Johnson:当時私はハンデ8か9だった。私は役者だから、もっと上手そうに見せることが出来た。

監督Ron Shelton:キャスティングはどちらかと云えば簡単だった。難しかったのは、撮影をするゴルフ場選びだった。どこも一ヶ月も映画撮影のためにクローズになんかしたがらないからね。

製作者David Lester(デイヴィッド・レスター):スポーツ映画を撮る際、実際のプレイヤーたちから遊び場を取り上げるなんて酷なことだ。だからわれわれは新規オープンで、まだ誰もプレイしていないゴルフ・コースを探した。それがHouston(ヒューストン)のゴルフ場の二つのコースをU.S.オープン会場にした理由だ。われわれはUSGAに来て貰って、U.S.オープンに相応しいコース・コンディションにした。練習場のシーンと資格審査トーナメントの会場は、アリゾナ州のゴルフ場だ。

テクニカル・アドヴァイザーPeter Kostis(ピーター・コスティス、元PGAツァー・プロ、現CBS-TV解説者):クランクインの一年前にKevin Costnerを練習場に連れ出し、スウィング構築を始めた。彼は青年時代野球の選手だったから、もともとスポーツマンなのだ。30分もしたら、彼は8番アイアンを約150ヤード離れたグリーンのピン傍1メートルにつけた。彼は監督Ron Sheltonを振り向き、『Ronnie(ロニィ)、おれが全部打つ。スタントダブル(スタンドイン)は要らないぜ』と云った。基本的に、彼はその通りにした。

俳優Don Johnson:Peter Kostisと、もう一人のテクニカル・アドヴァイザーGary McCord(ゲアリ・マコード、元PGAツァー・プロ、現CBS-TV解説者)の二人が私のスウィングを解体した。最初の週、私は100を切れなくなった。相当びびったが、我慢したよ。この映画で嬉しかったのは、ワン・シーン撮ると3〜4時間ゴルフする時間があったことだ。クランクインして三週間後、めきめきスコアが減り出し、クランクアップする頃には、私のハンデは3になっていた。でもって、ギャラまで貰えたんだ(^-^)。

【編註】Peter KostisとGary McCordは、アリゾナ州でゴルフ・スクールを共同経営しています。

監督Ron Shelton:この映画を本当らしく見せるためにツァー・プロを参加させたかった。だが彼らのエージェント(マネージメント会社)に電話すると、誰もが出演料は$50,000(約526万円)だと云った。こっちが『ノー、$600(約6万3,000円)しか出せない』と云うと、彼らは『とんでもない!』と云った。すると、Gary McCordが妙案を思いついた。

テクニカル・アドヴァイザーGary McCord:私はツァー・プロの奥さんたちに電話し、『俳優のKevin CostnerとDon Johnsonとのディナーはいかがです?条件は、あなたの旦那が一日映画撮影に付き合ってくれることなんですが』と云った。われわれはアリゾナ州Tucson(ツーソン)で大きな部屋を借りて奥さんたちを集め、Kevin CostnerとDon Johnsonに愛想を振り撒かせた。四人のU.S.オープン優勝者を含め、計35人のプロを引っ張り出した。彼らはアメリカ映画俳優組合の最低賃金を受け取った。

PGAツァー・プロCorey Pavin(コリィ・ペイヴィン):私はその年のU.S.オープン優勝者だった。いまだに私は、六〜八ヶ月おきに再使用料として200円弱の小切手を受け取っている。

俳優Cheech Marin:クランクインして二週間、私は全力投球していた。すると、監督Ron Sheltonが私をディナーに連れ出し、『どんな具合か?』と尋ねた。私は『撮影開始後二週間経ったんで、契約上私を馘にするのが難しくなっただろうと思いたい』と答えた。彼は不思議そうな顔をし、『これはあんたの映画なんだ。地で行きゃいいんだよ』と云った。すげえ、これは彼の口から出た最高の言葉だったね。私のお気に入りのシーンは、主人公と私がU.S.オープンの資格審査トーナメントで喧嘩し、彼が全てのクラブを折る場面だ。私はどう演じればいいか熟知していた。

テクニカル・アドヴァイザーGary McCord:映画の中で主人公がバーの外のペリカンの像をゴルフ・ショットで倒すシーンがある。それは実際に私がやったことだ。フロリダ州Pensacola(ペンサコーラ)のトーナメントで、雨天のため数人のプロが共同で借りたマンションに閉じ込められていた。ギャンブルしかやることがなかった。で、私は『みんな、10打くれたら、あのペリカンを寝室内から倒してみせるぜ」と云い、ボールを床に落とし4番アイアンを構えた。みんなは跳弾を恐れてソファの蔭に隠れた。私は、大きなガラスのスライディング・ドア越しにペリカンの頭を打った。人生で最高のショットだったね。

俳優Cheech Marin:主人公がU.S.オープン最終日のNo.18で次から次へとボールを水没させるシーンは、見るのが辛いシーンだ。ハッピーエンドを好む配給会社がこの場面を嫌ったので、監督Ron Sheltonは闘わなくてはならなかった。

俳優Kevin Costner:見物している5,000人のエキストラたちは、それが脚本に書かれていることを知らず、『んまあ!あの人、池を越えられないのね。いつまでやる気か知ら?』と囁き合っていた。だが、それが監督一流の英雄のイメージだった。最後にゴルフの歴史に残る12というスコアが生まれた。彼(監督)は勝つことと真の勝利との違いを知ってるんだ。

テクニカル・アドヴァイザーGary McCord:あのシーンのテストの最中、ある御婦人が『こんなの嘘っぱちよ!あんなに沢山ボールを池に入れるプロなんかいるわけないわよ』と云っていた。私は彼女の肩を叩き、『いますとも。あたしがMemphis(メンフィス)のNo.16でやりました』と云った。彼女は『あんた一体誰?』という顔をした。

製作者Gary Foster(ゲアリ・フォスター):この映画は1996年のオリンピック直後に公開された。興収はよくなかったが、それでもその週のトップではあった。ブロックバスターではなかったものの、しかし、われわれはこれがいい映画だと知っていたし、今でも稼いでくれている。1999年の全英オープンの最終日、トーナメント・リーダーのJean van de Velde(ジャン・ヴァン・デ・ヴェルデ)が安全なプレイをせず、堀にボールを打ち込んだ時、TVアナウンサーが『マイ・ガッド!彼、'Tin Cup'(ティンカップ)の真似をしてる!』と云った。ゴルフ用語の一部になったわけだ」

(July 31, 2016)

'Tin Cup'のような本当の話

'The Wit of Golf'
compiled by Barry Johnston (Hodder & Stoughton, 2010)

「ゴルフの歴史の中で最も異常なショットが、1974年にMoortown(ムーアタウン) G.C.で開催された全英アマで発生した。Nigel Denham(ナイジェル・デナム)がNo.18グリーンに向かって打った大胆極まりない第二打は、グリーンを遥かに越え、クラブハウスの階段を駆け上がり、開かれていたドアからバーにに突入し、壁で跳ね返って、テーブルの下に転がった。

MoortownのクラブハウスはO.B.とされておらず、彼のボールはなおもイン・プレイの状態であるとアドヴァイスされた。

Nigel Denhamはクラブハウスに入る前に、ゴルフシューズを脱がねばならなかった。ボールの上のテーブルを動かした後、彼は窓からNo.18の旗が見えることに気づいた。彼は窓を開き、取り囲んだバーの呑ん兵衛たちに励まされながら、完璧なピッチショットをし、ピンから約3.7メートルにつけた。彼は喜びながらグリーンに歩いて行き、劇的なパー・パットを沈めた。

数週間後、R&AはNigel Denhamが窓を開けたのは"line of play"(プレーの線)の改善であるとして、2打のペナルティを課すと裁定した。しかし、USGAとの議論の後、Nigel Denhamのスコアは正当とされた。つまるところ、窓は開けられるように作られているのだということで合意に達したからであった」

(July 31, 2016)

Lee Trevino(リー・トレヴィノ)と落雷

メキシコ系の両親を持つテキサス生まれのLee Trevino(リー・トレヴィノ)は、the Masters(マスターズ)を除く三つのメイジャーに二回ずつ優勝した名人。気さくで陽気で磊落な人柄から"The Merry Mex"(陽気なメキシカン)と呼ばれています。

[Trevino]

'The Senior Tour and the Men Who Play It'
Steve Hershey (Doubleday, 1992, $30.00)

「1967年にプロ入りしたLee Trevinoは、1973年までにメイジャー四勝を含むPGAツァー15勝を挙げ、六年と11ヶ月という早さで百万長者となった。しかし、間もなく彼は富を得たスピードよりも早く、その富を失うことになる。

1975年にシカゴ近郊のButler G.C.(バトラーG.C.)で開催されたWestern Open(ウェスターン・オープン)の二日目、雷雨に見舞われたTrevino、Bobby Nichols(ボビィ・ニコルズ)、Jerry Heard(ジェリィ・ハード)の三人は木陰に避難した。近くの池に落ちた雷が、地面を伝い、Trevinoが寄りかかっていたバッグに到達した。稲妻は金属シャフトを這い上がってTrevinoの左半身を突き抜けた。

『左腕と左肩は死ぬほど痛かったが、必死でその痛みと闘ったよ』Trevinoは云う。三人のプレイヤーたちは、近くの病院に急いで運び込まれた。医師たちはTrevinoの左肩に蜘蛛のような形の傷を見つけた。それは稲妻が身体を突き抜けた跡であった。医師たちは後に云った、『こういう跡は死体置き場で見かけるのが普通なんだ』…と。

トーナメント二日目は雨天中止となり、翌土曜日も中止となった。右脚上部に火傷を負ったJerry Heardは、36時間の入院の後競技に戻り、四位に入った。頭部に火傷を負ったBobby Nicholsは、(それ以前の13年間に12回優勝していたにもかかわらず)以後PGAツァーで一勝も出来なくなった。

落雷はTrevinoにも消えやらぬ影響を残した。彼は『電流が椎間板の周りの潤滑液を蒸発させてしまった』と不調を訴えた。それが真実だったのかどうか、17ヶ月後、彼は椎間板ヘルニアの手術を受けることになった。手術室に運び込まれる前にTrevinoは外科医を見上げて云った、「ドク、この手術にゃあなたの名声がかかってる。へまをしたら、夕食に手術用メスを食うことになりまっせ」

翌年、競技生活への復帰を焦り過ぎた彼の成績は低迷し、賞金獲得額はプロ入り後最低となった。超多額の税金を払うため、彼は持てるもの全てを売り払い、プロ入り当時と同じように裸一貫で出直しすることになった。経済状態の挫折が彼の勝利への欲望に火を点け、決意を再生させ、以前に増して彼を発奮させた。彼は徐々に上位に躍進し、ついにCanadian Open(カネイディアン・オープン)に優勝した」

順風満帆に見えたLee Trevinoの落雷後遺症からのカムバックでしたが、その後ギックリ腰を患ってしまい、一時はNBC-TVの解説者となったりします。しかし、1984年のPGA選手権(メイジャーの一つ)で二位に四打差をつけて優勝。世界中から宣伝契約依頼やトーナメントへのアピアランス・フィー付きの招待状がどっと舞い込み、二度目の春を迎えます。その後のシニア・ツァー、Chamipons Tour(チャンピオンズ・ツァー)で29勝という活躍ぶりは御存知の通り。

(July 31, 2016)

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