[Poison]

Sweet Bird of Youth

『渇いた太陽』

【Part 2】

Paul Newmanの役は非常に情けない男です。以前に町を出た時、彼は成功して帰って来ると恋人に約束したのです。途中で一度こっそり戻って来た時、娘は「金持ちにならなくていいから、私を連れてって!」と頼みました。彼女は横暴で専制君主の父親の元で息が詰まるような思いをしていたのです。この町を出られればどこでも良かったのでしょう。しかし、Paul Newmanは彼女の真意が判らず、Ed Begleyと対等の身分になって彼女を貰い受けに来ることを考えていました。しかし、すぐにハリウッド・スターになれるわけもなく、時間だけ経ち、彼は焦っていました。年上の女優のツバメになってまでチャンスを掴もうという浅ましい魂胆も、焦りゆえのこと。本当は彼はニューヨークへ行き、アクターズ・スタジオのメンバーとなってElia Kazan(イーリア・カザン)の薫陶を受けるべきだったのです。Tennessee Williamsの戯曲でブロードウェイの舞台に立ち、Marlon Brando(マーロン・ブランド)かPaul Newmanかと云われる役者になれたかも知れないのに:-)。

音楽に既成曲を多用しているので、非常に安っぽい映画に見えます。

いくら町の顔役でも、Ed Begleyが家庭でTVニュース用16mmフィルムを映写しているのは、一寸乱暴です。彼がTV局も経営しているのなら別ですが。警察の証拠としてでもフィルムやヴィデオ、録音テープ等を提出するのは、言論機関としての放送局が一番嫌うことなので、只の政治家にフィルムを貸すわけがありません。Tennessee Williamsは、あまり現実に斟酌しなかったようで、時々こういうあり得ないことが表現されます。

脚本・監督のRichard Brooks(リチャード・ブルックス)の責任ですが、便宜的なカットバックが何回かあります。Paul Newmanの恋物語はまあ重要ですが、女優の回想などは相当ありきたりで、なくもがなです。

Ed Begleyも恐ろしいが、その息子の粗暴さにも辟易します。“元”がつくとはいえ、ハリウッド・スターの女優に乱暴な扱いをします。ハリウッドなどどうでもいいという感じです。この父子が南部の暴力を代表します。

Paul Newmanは恋人が自分との子を堕胎したことを知ります。これはドラマの転回点です。しかし、既に恋人からは絶縁状を突きつけられた後です。彼にはハリウッドしか残された道はありません。

結局、ハリウッドは女優に今一度のチャンスを与えます。電話のそばでPaul Newmanが「俺を紹介しろ!」と迫りますが、女優は取り合いません。自分だけが大事で、その辺で拾ったツバメのことなどどうでもいいわけです。全てに取り残され自暴自棄になったPaul Newmanは、Ed Begleyとその一味の暴力も恐れず恋人の家に乗り込みます。案の定、Ed Begleyの息子によって痛めつけられますが、間一髪恋人が現われて軽傷で済みます。父親と兄の暴力にうんざりした娘は、Paul Newmanを介抱しつつ、いずこともなく去って行きます。

この結末がありきたりです。いいシーンのほとんどは回想で、後は我が侭な女優の面倒を見ているだけ。この映画を弁護出来る要素が見つかりません。大方の批評は老いかけたスターを演じるGeraldine Pageに賛辞を送っていますが、私には大した演技に思えません。

(April 16, 2001)





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