[Poison] Tobacco Road
『タバコ・ロード』

【Part 2】

アメリカでの封切りは1941年。日本初公開は1988年です。第二次大戦が挟まっているとしても、異常に遅い日本公開です。「農民の悲惨な生活を描いた作品だから長く輸入されなかった」というある解説を読みましたが、実は駄作だから輸入されなかったのだろうと思います。

John Fordは、この映画の前年1940年には'The Grapes of Wrath' 『怒りの葡萄』(1940) を作ってアカデミー監督賞を得ています。この『タバコ・ロード』の次には'How Green Was My Valley' 『わが谷は緑なりき』(1941) でアカデミー作品賞、監督賞を得ています。こんな“名監督”の映画を普通無視出来るものではありません。『怒りの葡萄』は農地を資本家に追われて大家族が一台のトラックでカリフォーニアを目指すが、そこも資本家の搾取が待っている地獄だった…という話。『わが谷は緑なりき』は炭坑夫の一家が、炭坑事故の犠牲になって死んで行ったり、離散しなければならないという話。どちらも悲惨な物語です。なぜ『タバコ・ロード』だけ差別されたのか?私は、これがコメディで、それも出来損ないだから…と断言します。

アカデミー監督賞の二作のように、貧しい者への限りない同情心を持ち、しっかりと描き切る手腕を持ったJohn Fordが、ではどうしてこんなコメディ仕立ての映画を作ったのか?二本の重苦しい映画の間で、一寸息を抜きたかったのでしょうか?

当時の映画評論では、この映画は原作(小説)の悲惨な部分や露骨な性に関するやりとりを全部削ぎ落とし、滑稽な部分だけ残したとして散々だったそうです(そうでしょうとも)。

では、脚本家が下敷きにした戯曲がいけなかったのでしょうか?戯曲が不評なら七年もロングランを記録出来なかったでしょう。多分、戯曲はOKなのです。

脚本ですが、実は『怒りの葡萄』と同じ脚本家です。ハリウッド映画には珍しいリアリズムで、農民の極限状態を描いたと絶賛された作品ですから、この脚本家のバックボーン、実力を疑う余地はありません。

映画を振り返って見ますと、馬鹿馬鹿しいのは主に車にまつわる場面です。主人公の古い車、そして息子の新車。どちらの車も非常に手荒に扱われていて、息子役の俳優のドタバタ調の演技がそれに輪をかけています。舞台には車は出て来なかったでしょうし、例え出て来たとしても映画のようにあちこちぶつけたり、壊したりは出来なかった筈です。となると、「舞台に差をつけるのは何か?」と考えた末にこうしたドタバタ・シーンを増やすことにしたのがひどい映画となった原因ではないでしょうか?『怒りの葡萄』の直後ですから、監督も脚本家もツーカーだった筈です。John Fordが志向し、脚本家が忠実に実現したという推理が可能です。

プロデューサー側からの圧力という線もあり得ます。『怒りの葡萄』の次も同じ路線では変化が無く、客が来ないと案じたかも知れません。しかし、この映画のスラップスティック風場面は、どれも私には笑えませんでした。こんなものが観たいのなら、私はBuster Keaton(バスター・キートン)の映画を選びます。

いくつかいい場面もあるものの、ことさらに南部農民を滑稽に、阿呆扱いし、結局金持ちの男のお情けで六ヶ月の猶予が得られるという他力本願の結末で無理に明るく仕立て上げていて、いささか不愉快です。John Fordは好きな監督ですので、とても残念。

いいシーンというのは、夫婦が家を立ち退くところ。逆光で落葉が降りしきる中、二人は家を後にします。しかし、どこへ行くといって二人には全く当てが無いのですから悲痛です。美しくも悲しい場面です。

(June 09, 2001)





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