[Poison] St. Louis Blues
『セントルイス・ブルース』

【Part 2】

最後のニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラのシーン。クラシックを演奏した後、'St. Louis Blues'の前に、指揮者が聴衆にこう語りかけます。「皆さん、ブルースはアメリカが生んだ唯一の芸術形態です。他の芸術形態は全てヨーロッパから伝わりました。昨年、我々が外国へ行った折り、どこでもこの曲を演奏しましたが、各地で『これはアメリカの国歌か?」と聞かれました」そして、Eartha Kittがオーケストラをバックに唄い、遅れて来たW. C. Handyが舞台袖にいた父親と固く抱擁し、Eartha Kittに促されて舞台に出て行き、'St. Louis Blues'の続きを唄います。なかなかいい趣向です。

以下は重箱の隅を突つくのではなく、読者が映画を100%信じてはいけないので、事実とそうでないことのノートです。

・W. C. Handyはアラバマ州の田舎で生まれ、メンフィスに行ったのはずっと後のことです。少年時代ではありません。
・父親はアラバマの小さな教会の牧師で、映画と同じようにジャズを毛嫌いしたのは事実のようです。
・W. C. Handyは在学中の休暇にも、その後も「ミンストレル・ショー」にミュージシャンとして参加しました。
・W. C. Handyの結婚は早く(23歳)、妻と共に演奏旅行に参加していました。
・W. C. Handyは1903年(30歳)で、ミシシッピ州クラークスデイルのバンド・リーダーとなり、六年滞在しました。
・そのバンドがメンフィス(テネシー州)に本拠地を移すことになり、彼の本格的メンフィス滞在はここから始まります(少年時代ではないわけです)。
・1909年(36歳)にメンフィス市長選候補(映画ではシェリフの候補者)のキャンペーン・ソングを作曲。この曲は立候補者の名前を取って'Mr. Crump'となっていましたが、後に改作されて'Memphis Blues'(メンフィス・ブルース)と変更。なお、W. C. Handyの最初のヒットはこの'Memphis Blues'だったのですが、この映画では著作権交渉がうまく行かず、数年後の作品'Yellow Dog Blues'が最初のヒットとされています。
・彼はオルガン、ピアノ、コルネット、トランペットを演奏出来、合唱指揮もし、テナーとして唄うことも出来たそうです。この映画で主人公が唄うシーンが多いのは、まんざらNat 'King' Coleに合わせた誇張ではないようです。

この映画では何度か'St. Louis Blues'が演奏されますが、タイトルとオーケストラ演奏のイントロを除くと、どれもスローで静かに奏でられます。私はブルーな雰囲気ながらも、結構元気のいい曲だったと思っていました。私はDave Brubeck Quartetのファンで、彼らの代表作'Jazz Goes to Junior College'(1957)に含まれている'St. Louis Blues'を長く聞いていました。手元にあるLouis Armstrong(ルイ・アームストロング)の'Complete Town Hall Concert'(1947)に含まれている'St. Louis Blues'も、アップテンポで陽気に演奏されます。こういう風に演奏されるのが定番だと思っていました。ですから、私には映画のクライマックスの'St. Louis Blues'があまりにローキイ(控えめ)なので、盛り上がりに欠けるような気がしました。私のような先入観がない人には問題ないでしょうが。

この映画は全てスタジオ撮影なのではないかと思いますが、W. C. Handyのコルネットが父の手で路上に抛り出され、荷馬車に轢かれた後、立ち去る叔母の影が三つ出ます。こういうことは屋外の路上では絶対にあり得ないことなので、気になりました(これは重箱の隅)。

(April 02, 2007)





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