[Poison] Sommersby
ジャック・サマースビー

【Part 2】

私は肝っ玉が小さいので、こういう風に誰かになりすますとか、敵地に潜入するという物語は恐くて嫌いです。お話としては成立しても、実際にはすぐ見破られると思うからです。“戦争もの”で相手の言葉も話せないのに敵国や敵の潜水艦に乗り込むとか、ボンドのように悪玉の要塞に入り込んでぬけぬけと要塞を破壊したりするとかは、本当なら見破られてすぐズドンでお仕舞いに決まっています。脚本家が悪党に馬鹿げたお喋りをさせたりするから助かっているだけです。真の悪党なら侵入者など無言で殺してしまうでしょう。この映画のように村人の全ての名前を死んだJack Sommersbyから聞き出しておくなどということは不可能ですし、事実偽者はJack Sommersbyの親友の名前を聞き漏らしていました。

この映画の場合、観ている私としてはRichard Gereがいつ正体を暴かれるかハラハラし、反面Jodie FosterやBill Pullmanが「なぜ、早く偽者である証拠を見つけないのか?」と苛々もさせられます。双方の立場に立たねばならないので忙しいし、普通の映画より精神的に二倍疲れます。こういう映画はあまり観たくありません:-)。

IMDbで教えられたことですが、この映画のシナリオには重大な欠陥があります。Richard Gereが村人に共同作業と土地の分割を提案した時、ある男に「何年sharecropper(シェアクロッパー=農園主から土地、肥料などを借りて小作料を収穫物で納める小作農民)をやってる?」と問いかけ、「15年だ」との答えに、「15年も働けば土地を手にして当然だ」と云います。次の文章はWikipediaの"sharecropper"の項の一部です。

The system occurred extensively in colonial Africa, Scotland, and Ireland, and came into wide use in the United States during the Reconstruction era (1865-1876).[http://en.wikipedia.org/wiki/Sharecropper]【(シェアクロッパー)という制度は、植民地アフリカやスコットランド、アイルランドなどで広範囲に見られ、合衆国には南北戦争後の再建期(1865-1876)に輸入された】南北戦争に負けた南部のプランテーション.オーナーたちは、働き手である奴隷を失い、かといって小作人を雇おうにもお金がなく、それでシェアクロッパーという制度を取るほか途がなかったのだそうです。

映画の最後でJack Sommersbyの墓碑が出て来ますが、それには没年が1867年となっています。アメリカでシェアクロッパーが導入されて二年も経っていないのに、件の農民はもう15年も経験していることになっているという不思議。また、南北戦争は五年間だったのに、Jack Sommersbyは「六年の不在の後帰って来た」と云われています。一年間、彼はどこで何をしていたのか?

普通の映画ファンにとってはこういうことはどうでもいいことでしょうが、「“南部もの”大全集」の編纂者としては抛っておけないのです。

もう一点。私は「公民権運動・史跡めぐり」のリサーチ中に一つ勉強したことがあります。旧弊な南部諸州では、白人による黒人殺害などは白人の陪審員ばかりの裁判だったため犯人が罰せられることがありませんでした。ケネディ時代に政府はそれを改善したいと願ったのですが、殺人事件は州の検事局が告発すべきことであって政府は殺人者を告発出来なかったのです。それでも政府は努力し、憲法への反逆罪としてK.K.K.などを裁判にかけました。有罪となっても殺人罪ではないので死刑や無期懲役などの重刑は科せられず、せいぜい数年間刑務所にぶち込めるだけでした。

つまり、この映画でも連邦執行官がJack Sommersbyを逮捕に来ますが、これは殺人罪なので州の裁判所が扱う事件の筈です。Jack Sommersbyが殺人を犯したのはミシシッピ州の州都ジャクスンなのに、裁判はなぜかテネシー州のナッシュヴィルで行なわれます。ミシシッピ州で裁判があるのが本来ではないかと思いました。こちらの人に聞いてみると、どこの州で裁判を行なうかは連邦裁判所や州の判事が決めるので結構流動的との答えでした。被害者の住んでいた土地で裁判を行うと、被告にとって余りにも不公平な裁判になり得るため、中立的な他の土地を選ぶこともあるのだそうです。

この映画の裁判のシーンを観ながら、次のようなことを思い出しました。Frank Stockton(フランク・ストックトン、1834〜1902)という作家の短編に"The Lady or The Tiger?"『女か虎か?』というのがあります。まだ野蛮な考え方が残っている国で、王女と廷臣の中の一人の青年が恋仲になっていることが露見し、王様は青年を牢に入れてしまいます。王様は万人に公平であることを国民に示すため、次のような裁判を行なっていました。闘技場の一つのドアの後ろには飢えた虎を、もう一つのドアの背後には国一番の美女を潜ませておき、容疑者に自ら選ばせるのです。ドアAを選べば、その場で容疑者は虎に食い殺されてしまいます。ドアBを選べば容疑者は死を免れ、すぐその場で美女と否応なく結婚させられます。王女は様々な手段を使って、愛する青年のためにどちらのドアに何が配置されるか探り出そうと努力し、ついにその答えを知ることが出来ました。そして、王女は処刑前夜に青年にどちらのドアを選ぶべきか伝えました。さて、ここで問題です。王女はどちらのドアを教えたのでしょうか?女か虎か?王女は愛する青年が虎に八つ裂きにされる様を見たくはありません。かといって、嬉しそうに国一番の美女と結婚する青年の裏切りも見たくないのです。これは女性心理探求の課題として残された名作です。

この映画でもRichard Gereは『女か虎か?』の王女と同じようなディレンマに陥ります。彼がJack Sommersbyであると主張し続ければ、彼は殺人の罪で死刑になります。彼がJack Sommersbyでなく偽物であると認めれば生きながらえることは出来ますが、今後の生活はこれまでとは大きく異なってしまうでしょう。Jodie Fosterも彼も、人々を偽っていたことが露呈するため、村人の信頼は失われてしまいます。そうなれば、二人は子供たちと共に村を出てあてどなくさすらうことになるかも知れません。彼はJodie Fosterとの間に芽生えた愛を貫きたい。村人たちから勝ち得た信頼も失いたくない。彼は今がこれまでの人生で最も幸福な時期であると実感しているのです。さあ、どうする?この段階では、Richard Gereの心理は『女か虎か?』状態です。

結局、彼は名誉ある死を選びます。Jack Sommersbyは死んだと思ってBill Pullmanとの再婚目前だったJodie Fosterの人生をかき乱したのは自分なので、自分が後を濁さずに消えればJodie Fosterの人生は元に戻ると考えたのでしょう。それが彼の“愛”のようです。

しかし、「死んで花実が咲くものか」という言葉もあります。Jodie Fosterは偽者と知りつつも彼を愛し始め、彼に生きてほしいと願って法廷で証言までしたのです。彼女の愛に応えて、彼は生きる道を選ぶべきではなかったのか?たとえ、Jodie Fosterと息子や娘と村を去ることになったとしても、Jodie Fosterの願い通りにしてあげるのが真実の愛ではなかったのでしょうか?もちろん、この選択は女々しく、安易であり、メロドラマたり得ません。名誉ある死を選ぶからこそ格好良く、Richard Gereも自分で製作・主演したがったのでしょう。村人たちから石もて追われるような主人公は演じたくなかったでしょう。しかし、「名誉ある死」というこの選択はとても嘘っぽく、この映画を紙芝居のように薄っぺらにしたことは否めません。Frank Stocktonの『女か虎か?』は選択を読者に委ね、結末を示しませんでした。だからこそ名作になったわけです。黒澤 明の『羅生門』もそうでした。しかし、劇場映画で結末を見せなかったりすれば、一般大衆が承知するわけないとハリウッドは考えたのでしょう。DVDなら"Alternative Ending"とか称して、別な結末を見せることも出来ますが、劇場ではそうも行きません。これは脚本家を含む映画製作者たち全体のディレンマでもあったのではないでしょうか。

(February 19, 2007)





Copyright © 2001-2011    高野英二   (Studio BE)
Address: Eiji Takano, 421 Willow Ridge Drive #26, Meridian, MS 39301, U.S.A.