[Poison] Obsession
『愛のメモリー』

【Part 2】

この映画の最大の趣向は、誘拐事件が全く同じ状況で再現されることです。
1) 最初は妻と娘が攫われ、楽観的刑事の言葉に乗せられたためキャッシュを用意せず、結果的にCliff Robertsonは妻子を見殺しにしたことになります。
2) 16年後、今度はイタリア女性Sandra(Geneviève Bujoldの二役)が、Cliff Robertsonの愛を試すため偽装誘拐を企てます。彼が現金を持って現われれば、自分を真に愛している証明となると考えたわけです。

二番目の誘拐事件はやや唐突で、Cliff Robertsonがよく確かめもせずに本当にイタリア女性Sandraが誘拐されたと思い込むのが難点。しかし、彼は16年前の事件で実際に身代金を支払って妻子を取り戻すべきだったと後悔しているわけで、もう二度とあのような過ちは冒すまいと決意しています。彼には考える時間など不要で、答えはただ一つ「身代金を払う!」に尽きていました。

こうして彼は再度フェリーに乗り、古い無人の埠頭にブリーフケースを投げます。彼は知らないのですが、実はJohn Lithgowの計略で、今度もブリーフケースの中身は偽の札束にすり替えられています。今度ブリーフケースを拾いに現われたのはSandraで、彼女はブリーフケースを開けてCliff Robertsonが自分のために身代金を払う意思がないことを知ります。そこへJohn Lithgowが加わり「あの男は締まり屋だからな」というようなことを呟いてSandraを号泣させます。

Sandraは実は25歳に成長したCliff Robertsonの娘Amy(エイミィ)だったことが分ります。John Lithgowは誘拐犯の一人からAmyを請け出し、密かにフィレンツェに送って里子に出していたのでした。彼はAmyにCliff Robertsonがいかに冷酷であるかを話し、Amyの父への復讐心を育みました。機が熟したと見たJohn Lithgowは、Cliff Robertsonの金を奪うためにフィレンツェに彼を伴い、自然にAmyと出会うように仕組んだのです。

John Lithgowは登場した瞬間から油断のならない奴という感じの存在で、観客は「こいつは何か悪いことをするぞ」と直感します。単なるビジネス・パートナーや親友のような存在に、キャスティング・ディレクターがJohn Lithgowを引っ張り出すことはないと知っているからです。しかし、彼は最後の最後になるまで正体を現わさないので、「一体どうなってるんだ?」と困惑させられますが、われわれの直感が間違っていなかったことが証明されます。

しかし、John Lithgowの人物造形は首尾一貫していません。彼はAmyを遠くフィレンツェに送り、16年もの間策を練って来たのに、折角奪った$500,000のキャッシュをCliff Robertsonに返すのです。愚かなCliff Robertsonを嘲笑し、自分の頭の良さを自慢したかったからといって、大変な計略で手に入れた金をすぐ返すものでしょうか?彼は、亡き妻にそっくりな女性に贖罪をしようというCliff Robertsonのひたむきさを軽視していました。Sandraとの結婚を邪魔されたCliff Robertsonは、John Lithgowを鋏で刺し殺します。$500,000の金を見せびらかしたりしなければ殺されずに済んだのに、馬鹿なJohn Lithgowです。

Cliff Robertsonは自分を騙したSandraを殺しにフィレンツェに向おうとします。一足先に旅立ったSandra(実はAmy)は実の父を騙したことに堪えられず、機内で自殺を図り、飛行機はニューオーリンズ空港に戻って来ます。それを知ったCliff RobertsonはSandraを殺すべく、ゲートに向います。コンコースの遥か彼方に、車椅子に乗せられたSandra(=Amy)。こちらの端にピストルを構えたCliff Robertson。彼を制止しようとする警備係をブリーフケースで振り払ったため、現金が飛散します。それを見たSandra(=Amy)が「ママ!パパがお金を持って来てくれたわ!」(家族を見殺しにするような父ではなかった)と叫び、走り出します。Cliff Robertsonも走り出しますが、彼はあくまでもSandraを射つつもりでピストルを構えたまま。

感動で泣き笑いしながら走るAmyのスローモーション撮影。こちらもスローモーションで、彼女を睨みつけるように走るCliff Robertson。いつ彼が銃を発射するか?というスリルに満ちた数十秒が展開します。彼に抱きつきながら、彼女が"Daddy!"(お父ちゃん!)と思いがけぬ言葉を発するので、Cliff Robertsonは射つのをためらい、まじまじと彼女の顔を凝視します。

カメラが互いに見つめ合う二人の周囲をゆっくり回転します。Cliff Robertsonの表情が次第に変わって行きます。カメラはなおも何度も回転を続け、ついにCliff Robertsonが"Amy!"と娘を認識して微笑んだ瞬間にカメラの回転が停まります。監督Brian De PalmaがDVDで「この撮影は大変だった。カメラが360°回るのだから、スタッフの隠れる場所がない。それで、監督、助監督、その他の必要最小限の人間はカメラマンの背後でカメラの動きにつれてぐるぐる走り回らなくてはならなかった」と云っています。私にも同じ経験があります。私はドキュメンタリーのカメラマンでしたが、取材対象の置かれている状況を示すためや、こちらの情感を表現したくなった時、360°回りたくなることがあるのです。カメラマンがこれをやると、ディレクターと音声マンはパニックになります。彼らは画面に映らない黒子であるのが原則ですから、大慌てでカメラから逃れようとして駆け回ります。逃げ切れずに画面に写った人たちも結構いました:-)。この映画の360°回転ですが、見た目には10回以上回っているように見えるほど長いものの、数えて見るとたった七回でした。監督たちは少なくとも七回は走り回ったことになります(一発OKとはせずリテイクしたでしょうから、実際にはもっと)。

この父娘対面のシーンは感動的で、いかにもめでたしめでたしに思えますが、実はCliff Robertsonは殺人犯になってしまったわけですから、彼は刑務所に行かなくてはなりません。全然めでたくないのです。事実、脚本家Paul Schraderの初稿では、Cliff Robertsonは十年間刑務所に行き、釈放後Sandraを殺しにフィレンツェに行くことになっていたそうです。Sandra(=Amy)は催眠療法によって誘拐事件を再現し、父が現金を持って来るイメージを持って"Daddy!"と叫び、映画と同じように父娘が抱擁する…。監督Brian De Palmaはこの十年後のお話を加えるのは映画として長過ぎ、観客の集中力を削ぐ…と、Paul Schraderに改稿を頼みましたが拒否され、結末の部分だけ自分で書いたそうです。

もう一つ、初稿と完成した映画の違い。映画の中でも、結婚式を待ち切れないCliff Robertsonがイタリア娘Sandraだと思い込んでいて彼女にキスするシーンがあります。その後、彼は彼女をベッドに運ぶシーンも脚本に書かれていたそうです。彼は知らないとは云え、これでは結果的に父娘相姦になってしまいます。インデペンデント映画として製作していた映画ですが、プロデューサーは広く公開してくれるメイジャー映画会社を探していました。その時に障害となったのがその近親相姦でした。で、その謗りを免れるため、映画のように幻想シーン風に加工して、彼の夢の中の妄想ということにしてしまったのだそうです。

疑問点はいくつかあります。
・大統領の妻子ならともかく、普通人の妻子を何もパーティの晩に誘拐しなくてもいいのではないか?誘拐犯二名は、ウェイターの仕事までしなくてはならないわけで大変でしょう。普通の日の日中にだって簡単に誘拐出来るはず。
・フェリーは乗降客もいないのに無人の埠頭すれすれに航行するが、こんな無駄で危険なことは普通しないと思う。
・ニューオーリンズ警察はミシシッピ川に落ちた誘拐犯の車も遺体も全く発見出来ない。事故後すぐ捜索が始まったとすれば、車が発見出来ないということはあり得ない。発見出来なければ、相当お粗末。
・映画を観ていると「あれよ、あれよ」なので気づかないのですが、John Lithgowの動機と役割が非常に曖昧。幸福なビジネス・パートナーの家庭生活を羨んで崩壊させようとしたとか、何かもっともらしい動機があればいいのですが見当たりません。前述のように、苦労して奪った金をCliff Robertsonに返しているので、物欲ではないように見えます。16年越しの長期謀略を練れるほど切れる男なら、真っ当なビジネスで16年間に身代金以上の財産が作れたでしょうに。
・身代金と云えば、16年前と同じ金額ではインフレのせいで引き合わないのでは?
・Sandra(=Amy)は昔の新聞から、当時の誘拐犯が残した脅迫状と身代金受け渡し法の二つのメッセージの実物大コピーを切り抜き、それをベッドに貼付けて姿を消します。新聞がそんな大きな写真を載せるか?という疑問もさることながら、切り抜き文字の脅迫状には「妻と娘を生きて取り戻したくば…」とあり、それが現在の状況にそぐわないことは自明です(妻も娘ももういない)。それなのに、Cliff Robertsonは盲目的に金策に駆け出すのです。

「面白ければいいじゃないか」という意見もあるでしょうが、辻褄が合わなくてもいいのなら、どんな映画だって作れるわけです。Hitchcockは「たかが映画じゃないか」と云い、お話を転がすための弾みとして"MacGuffin"(マクガフィン)という概念を導入しました。'North by Northwest'『北北西に進路を取れ』で云えば、悪党共がアメリカから盗み出そうとしている国家機密がMacGuffinで、その実体は何も無く、観客にも最後まで説明されません(実体が無いのだから説明出来ない)。Hitchcockは一編の映画を面白可笑しく転がすことに全精力を使い、物語の発端とか理屈などは無視しました。

監督Brian De Palmaも「面白ければいいじゃないか」という姿勢でこの映画を作ったのかも知れません。しかし、HitchcockはMacGuffinは使ったものの、それを除く物語全体は一部の隙もなく構築されていたと思います。偶然に左右される出来事などなく、伏線もあり、常識を逸脱するような部分は皆無でした('The Bird'『鳥』などを除く)。私は「『もう一回観たい!』と思わせるかどうかが、名作とそうでない映画の違い」と書いたことがありますが、この映画はかなりよく出来ているものの、もう一度観たいとは思いません。上で指摘したような馬鹿馬鹿しい点が気になって、ゆったり鑑賞出来ないと思うからです。Hitchcockや黒澤作品にはそういう部分がなく、何度観ても楽しめます。名匠と云われる人の作品は大体そうですね。

(June 29, 2007)





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