[Poison] The Night of the Hunter
『狩人の夜』

【Part 2】

先が読めないという点では物語(原作と脚本)はよく出来ています。子役たちの演技がやや硬いですが、まあ許せる範囲。93分という長さも適切です。James Ageeの最初の脚本はベラボーに長かったそうです。

ドイツ表現派的映像の露払いは、犯罪者Peter Gravesが絞首刑になった後の遺族の暮らしに、突如蒸気機関車が驀進する映像が挿入されること。斜めに(凄い登り坂のように)撮られた映像に轟音をかぶせることによって、家族のもとへ悪魔が突進して来るような効果を与えます。

Shelley Wintersが殺される屋根裏部屋も、リアルなセットではなく、簡素化された抽象的セットです。そして、川に沈められた彼女も、やけに透明な水を通してクリアに見えます。兄妹がボートで川を下り始めると、急に映画がディズニィのお子様映画風に変貌します。二人が乗っているボートの手前の岸辺に、やたらと動物などが配置されるのです。毛糸を編んだような蜘蛛の巣、梟(ふくろう)、兎、狐、亀、蛙、羊など。これらはいかにも合成でございという感じで、自然に見えなくて結構と開き直っている感じで撮影されています。

兄妹が陸に上がって寝ようとすると、非常に簡素でモダンな家が建っていて、その一つには鳥かごがぶら下がっているだけで、女声による歌声が聞こえます。もう一つは納屋で、兄妹はその二階の干し草の上で寝ることにします。月が画面の真ん中にあり、次のカットで月はすっと右上へ。さらに次のカットで月は右上端に移動します。夜明け近く、ふと少年Billy Chapinが目覚めると、Robert Mitchumの『主の御手(みて)に頼る日は』(聖歌503番)が聞こえて来ます。薄明でシルエットになった遥かな丘を歌いながらゆっくりと馬で横切って行くRobert Mitchum。これは映像として綺麗であると同時に、ストーカーRobert Mitchumの(子供たちを)絶対見つけてやるという楽観主義、絶対諦めないという執念深さなどを表現して秀逸。

月ばかりでなく、星空も何度も出ます。これがボール紙に穴を開けたようなお粗末な星の数々。これを観ていて、私は自分の失敗を思い出しました。TVカメラマン一年生だった私は、16ミリ・カメラ(当時はスタジオと中継以外はほとんど16ミリ・フィルム)で岐阜県の山の中の農家を撮りに行きました。夜八時頃、表へ出ると満点の星。私は星空をバックにした農家を何カットか撮り、帰局して現像が上がるのを待ちました。素晴らしい筈の星空は真っ暗け。その頃の私は肉眼では見えてもASA100や200のフィルムで星が写る訳ないということを知らなかったのでした(月は明るいので写りますが)。その後、超高感度カメラによって南十字星などを撮ることもありましたが、いつも岐阜の農家と星空を思い出しては一人苦笑したものです。

他にも映像的に凝っている場面は、一面の大きな壁の前で人物たちを歩かせるとか、リンチを望む暴徒の群れを大きな影を出して撮るとか、まだまだ沢山あります。但し、それらが全て一編の映画の中で解け合って成功しているか?というと疑問です。映画の冒頭からドイツ表現派的描写で始まるわけでもなく、全体にそういうトーンで貫かれているわけでもないからです。リアルな描写と抽象的描写が継ぎはぎになっている感じなのです。私はこういう統一の取れていない演出方針は嫌いです。やるんなら'Manderlay'『マンダレイ』(2005) のように徹底してやって貰いたい。

物語の後半は孤児たちを育てているLillian Gishの家が舞台になります。彼女も聖書の物語を子供たちに語り聞かせ、聖歌も歌います。同じクリスチャンでも、未亡人を殺して歩くRobert Mitchumと正反対の人物像です。奇しくも、Robert Mitchumの指に入れ墨された"LOVE"は愛情深いLillian Gishで、"HATE"は女嫌い・子供嫌いのRobert Mitchum。その二人の対決となるわけです。

夜、Lillian Gishの家の庭先でRobert Mitchumが、恫喝するように『主の御手(みて)に頼る日は』を歌います。Lillian Gishは猟銃を手に、油断無く彼を見守っていますが、彼に合わせて賛美歌を歌います。映像はLillian Gishを手前に引っかけ、窓越しにRobert Mitchumを一画面で見せます。と、Lillian Gishが育てている一番上の娘が歌声を訝ってロウソクを手にやって来ます。手前が明るくなったため、窓全体がハレーションを起し、窓の外は全く見えなくなります。「バカね!」とLillian Gishがロウソクを吹き消しますが、一瞬の差でRobert Mitchumの姿が消えています。これなどは日常生活で見慣れている現象ですが、映画の中の視覚的遊びとして利用したのは上手いと云わざるを得ません。スリルもありますし。

上の場面の後、Lillian Gishは「全く女って馬鹿なんだから」と独りごちます。彼女以外の女性登場人物たちは本当に馬鹿ばかりです:-)。Robert Mitchumを信じるアイスクリーム・パーラーの老婦人【後に彼女は「説教師(Robert Mitchum)をリンチにしろ!」と群衆を煽動します】、同じく騙され結婚し殺されてしまう哀れなShelley Winters。そして、少女のSally Jane Bruceも(いくら幼いとは云え)100ドル札で人形(ひとがた)を切り抜いたり、Robert Mitchumにでたらめの金の在り処を云う兄を嘘つき呼ばわりしたり、阿呆でどうしようもありません。Lillian Gishが育てている一番上の娘も上辺だけを見てRobert Mitchumを慕っています。ほんとに「女って馬鹿だなあ」と思わされますが、そういう彼女たちがいかにも普遍的な女性に見えるのも事実で、これは脚本の上手さでしょう。

Lillian Gishが育てている一番上の娘が、親切なRobert Mitchumに惚れてしまうという脇筋はうざったいのですが、女の性(さが)を強調することで女嫌いのRobert Mitchum、息子に見放されている母親Lillian Gishらの“愛の空白”との対比を出したかったのでしょう。しかし、93分の映画にあれもこれも詰め込むことは不可能です。Robert Mitchumと幼い兄妹の物語に留めておくべきだったと思います。

ところで、われわれは問題の10,000ドルはどうなるのか?と気を揉むわけですが、子供たちが手にすることにはならず、脚本は(ちとわざとらしいものの)うまい結末を用意しています。

(May 27, 2007)





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