[Poison] Manderlay
マンダレイ

【Part 2】

私は16mmフィルム・カメラで仕事を始め、TV界のヴィデオ化が進むにつれベータカムを使うようになりました。どちらの場合も三脚を付けるのが正しいあり方とされ、手持ちカメラは悠長に構えていられないニュースやドキュメンタリーの修羅場に限られていました。そういう風に育ったからというだけでなく、観る側の立場としても手持ちカメラの多用は嫌いです。ぐらぐら動く映像を見せられると船酔いに似た吐き気を催します。ドキュメンタリーやTVニュースのカメラマンだって、何も揺らしたくてカメラを揺らしているわけではありません。長時間、15キロもあるベータカムを持っていると、その重さに堪えられず揺れ始めるのです。それを、“ドキュメンタリー・タッチ”とか“TVニュース風”などと称して、劇場映画が揺らして見せるのなどはいい迷惑というものです。

この映画ではいくつも撮影の“掟破り”をしていますが、その一つにドンデンというのがあります。図のように二人の人物が話している場合、カメラは二人(図のAとB)の鼻を結ぶ線の延長線上から奥へは入らない(図のカメラ位置1と2に留まり、点線を越えない)のが劇映画やTVドラマの鉄則です。図のカメラ位置3のように点線を越境するのがドンデンで、画面上では人物が向き合っているのではなく、並んでお互いあさっての方を向いて話しているように見えてしまい、観客を混乱させます。ドキュメンタリー撮影の場合、どうしてもドンデンに入らなければならないこともありますが、極力避けるようにしています。この映画はその抽象的セット(装置)やパントマイム風の演技によって演劇と比較されることが多いようですが、舞台を見つめる観客はその座席から“定点観測”するのであって、観客が舞台を突っ切ってドンデンに入ることは絶対にありません。

三脚を付けるのもドンデンに入らないのも、どちらも観客に親切であろうというのが根底です。そういう観点からすると、この映画の監督は観客の感覚を逆撫でするような手法をとっていると云っていいでしょう。文章に喩えれば、文法を逸脱したフレーズをバラまいて、読者に正しく解釈することを強制するようなものです。そういう遊びが好きな人にはいいでしょうが、手持ちカメラで吐き気がするわ、意味も無くドンデンに入って混乱させられるわ…では疲れます。

異なる光源で二回に分けて撮られたカット(赤っぽいショットと、青っぽいショット)を、途中で切って一つに合体させているところがあります。これは普通屋外から屋内(あるいは逆)に撮影場所を変えた場合、太陽光と人工光の色温度の違いから赤くなったり青くなったりするもので、その調節にはフィルターを変更しなければなりません。もしフィルター変更を忘れた場合、どちらか(屋外か屋内の撮影)はNGとして捨てられるべきものです。この映画は全編スタジオ撮影であり、太陽光など入り込む隙はありません。ですからこの監督は撮影監督に無用のフィルター・チェンジを強制し、TV番組撮影のミスを模倣しているのです。カットの途中でフォーカスをいじって画面がぼけるところもありますが、ドラマではNGにすべきものです。TV番組撮影の恥部ばかり真似して見せているという嫌らしい性格の監督です。

上の説明でお分かりのように、私は保守的な撮影をするカメラマンでしたから、実験映画とか前衛映画はあまり好きではありません。それでも東京に「アート・シアター」が開館した頃は結構通って勉強したものですが。この'Manderlay'も、上のような気に食わない部分は多々あるものの、主人公の試みがどういう結末を迎えるのか?という興味で、次第に技法的なことは忘れて物語に引き込まれました。

理想主義的なBryce Dallas Howardの目論見は、怠け者のような黒人たち相手で果敢なく挫折しそうに見えますが、辛くも成功を収めハッピーエンドか?と思うと、ある事件によって苦い結末になりかけ、さらに黒人たちからのプレッシャーによって彼女の本心が問われることになる…と、二転三転します。この辺の趣向はなかなかよく出来ています。

Bryce Dallas Howardが“誇り高い黒人”と考えたIsaach De Bankoléの冷ややかな目が、彼女の胸に刺さったトゲとなり、彼のリードで綿の苗が救われるに至って、彼女は彼を英雄視し惹かれるようになって行きます。彼女の彼の黒い肉体への欲望、彼の裸体を想像しながらのマスターベーションを経て、その欲望を彼に見抜かれた彼女が無抵抗でセックスされる段取りが珍しく、しかも興味深い要素となっています。その彼のセックスの荒々しさはまるで彼女を拷問にかけているようで珍妙です。あんな土木工事のような乱暴なテクニックで、女性をクライマックスに導けるものでしょうか?

結局、Bryce Dallas HowardはIsaach De Bankoléの見掛けからも、一見とろいようなDanny Gloverからも騙されていたことが分ります。それはいいのですが、実は彼らは真の自由を恐れ、彼らの意思で奴隷制を選び取り、自分たちで自身をコントロールするための'Mam's Law'を作り上げていたそうなのです。こうなるとよく解らなくなります。この映画はアメリカという国とアメリカ人への皮肉が根底にあるのかと思っていました。しかし、「黒人たちが自由を恐れていた」というのは事実に反しますし、「黒人たちはしたたかで、白人たちは騙されていたのだ」というのも嘘です。誰が好んで奴隷の身に甘んじ、鞭打たれたり殺されたりしたがるでしょう?

理想主義者Bryce Dallas Howardの行動を、“世界の警察”を気取るお節介なアメリカの国際政策になぞらえて読むことは可能です。韓国、ヴィエトナム、イラクなど、アメリカは“後進国”に居座って“指導”することが好きです。どのケースでも失敗し、多大な犠牲を払っているのにまだ凝りません。Bryce Dallas Howardの行動とそっくりです。ただ、この場合も「実はその国の人々が真の自由を恐れていた」というのはそぐわない要素です。「彼らはしたたかである」としても、「アメリカを手玉に取っていた」とは云えません。どうもこの仕掛けは、仕掛けのための仕掛けであり、腑に落ちない夾雑物になっているようです。

最後にDanny Gloverが「おれたちにはMam(主人だったLauren Bacal)のような存在が必要だ」と云うのも理解不能です。Lauren Bacalは真のプランテーション・オーナーで毅然とした存在でした。黒人たちに囲まれ、無理矢理MamにさせられるBryce Dallas Howardには威厳も威圧感も望めませんから、Mamの代わりにはなり得ません。無意味です。黒人たちは民主主義を学び、それを気に入っているのですから、飾り物の天皇や女王を置いても仕方がないでしょうに。三部作の前作'Dogville'『ドッグヴィル』(2003)では、ギャングに追われる主人公が村人たちに匿って貰う代わりに、村人たちからいびられる話だったそうです。こちらでも主人公が黒人たちから「おれたちと一緒に暮らせ」と強要されるのは、同じパターンとも云えます。

(March 02, 2007)





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