[Poison] Junebug
『ジューンバッグ』

【Part 2】

アメリカ南部は「バイブル・ベルト」と呼ばれる一帯でもあり、特に熱心なキリスト教信者(主にバプティスト系)が多い地域です。私が住んでいるのはミシシッピ州Meridian(メリディアン)という人口40,000程度の、日本なら熱海市や網走市に近い規模の町ですが、そこに200以上の教会があります。単純計算で市民200人につき一つの教会、人口を18歳以上の成人だけに絞れば、146人に一つの教会という凄い数字です。何しろ、町外れの山の中にまで教会がありますからね。土曜日の新聞には「宗教」という特集があり、ニュースや人物紹介のほかに見開き二頁に教会の広告が隙間なく載っています。「明朝は礼拝に来なさいよ」という意味で土曜日というタイミングになっているわけです。

日曜朝のTVでは三つのチャネルで教会からの生中継があります。身体が不自由な人、もう車が運転出来ないお年寄りなどは家から出ないで礼拝に参加出来るわけです。

私は市営ゴルフ場のシニア・ゴルフ協会の大勢と一緒にゴルフすることがあります。前夜、仲間の一人が亡くなったとかで、朝スタート前に集まった15〜20人ほどが、全員手を繋いで元説教師の祈りに合わせて黙祷を捧げるという出来事がありました。

この映画では移動ショットで教会の大きさを見せていますが、土地代が安いせいもあって、教会の敷地はとても広い。建物自体も大きいし、集会場(昼食会などに使う)や日曜学校の教室、広大な駐車場まで含めると、日本では信じられないような大きさです。Alessandro Nivolaが賛美歌を歌う集まりは、別に彼の帰郷を喜ぶ会合ではありません。各教会でごく普通に行なわれる日曜の昼食会(あるいは水曜夜の晩餐会)です。信者が家族ごとに手作りの料理を持ち寄って食べます。信者の誰かが亡くなると、お葬式の時も、信者たちが同じように家庭料理を持ち寄って、遺族と参列者のために昼食を供します(遺族がリクエストした場合ですが)。これらの催しのために集会場が必要なのです。

私のカミさんの母親は介護老人ホームに入っていますが、最近ついにホスピス・ケアが必要な状態になりました。ホスピス・ワーカーがカミさんに「お母さんに『もう心の準備をするように』と云った方がいいですよ」と示唆したそうです。カミさんは私に「母はイギリス人だし、南部のアメリカ人のように信仰心が深い方ではない。生粋の南部人だった父なら『神の国に召されるのだから幸せだ』とか云ったかも知れないが、母はそんな受け止め方はしないに違いない」と困っています。【この項執筆後、数日してカミさんの母親は亡くなりました】

もちろん、北部にも熱心なクリスチャンは多く、教会の数もそれなりに多いでしょうが、「バイブル・ベルト」地域とは比べ物にならないのではないでしょうか。この映画で北部から来た人間がびっくりするほど、信仰が生活に密着しているわけです。

上のは南部の良い面の紹介でした。悪い面を一手に引き受けているのはAlessandro Nivolaの弟Benjamin McKenzieです。彼はレッドネック(南部の無教養な女性差別・人種差別主義者)の特徴を具現し、この映画に不協和音を付け加えています。職場では快活なクセに、家庭ではブッキラボーで人の感情を無視し、時に粗暴でさえあります。確かにこういう人間もいるのですが、この映画ではどうしようもない人間の典型のように「これでも足りないか、これでもか」と描かれていて、ほとんど嘘っぽく見えています。いくら不躾でも初対面の義姉に開口一番「タバコ持ってない?」と云うでしょうか?いくら無知でも病院の病室でタバコを吸おうとするでしょうか?いくら無教養でも、爪を折ったVHSで再録画出来ないことに腹を立てるでしょうか?いくら非常識でも、義姉が抱擁してくれた時にお尻に触ったりするでしょうか?いくら傲慢でも、死産して悲しむ妻を慰めずに無視するでしょうか?いくら粗暴でも、実の兄の顔面にレンチを投げつけたりするでしょうか?

義姉のお尻に触る一件は伏線があります。初対面の時から義姉Embeth Davidtzは義弟の手を握ったり、顔に触ったり、親愛の情を過度なまでに示すのです。これは脚本と監督が、観客に判り易いように配慮した結果(伏線として)でしょうが、凄く不自然に描かれています。余りにも慣れ慣れし過ぎて、義弟が「この女はおれに気があるのか?」と思っても仕方がないほどの行動です。それが二人の抱擁の際のお尻へのタッチに繋がるわけです。

上の一件は別の挿話に影響をもたらします。Amy Adamsが死産してしまった後、夫であるBenjamin McKenzieは妻を慰めるでもなく、Amy Adamsを困惑させるような不可解で不気味な沈黙を保っています。そこで義兄のAlessandro Nivolaが病室のベッドのAmy Adamsを訪れ、長い長い会話をします。Alessandro Nivolaは義妹を愛おしそうに見つめながら優しく彼女の手を握っていますが、Amy Adamsが感情を激発させて泣き出すと、Alessandro Nivolaは彼女の頭を抱き締めます。嗚咽が収まると、二人はじっと見つめ合います。ここで、義弟が義姉のお尻に触った一件を覚えているわれわれ観客は、義兄と義妹が接吻するのではないか?と心配してしまいます。それほど、このシーンの二人の情感は親密なのです。義兄が彼女の顔に自分の顔を寄せた時、「またか!」と思うのですが、Alessandro NivolaはAmy Adamsのおでこにキスするだけなので、ホッと一安心。このシーンは、私が述べたような恐れを孕んでいるので、素直に落ち着いて画面を見ることが出来ません。それが脚本家と監督の狙いなら、大成功と云っていいでしょう。狙いでないのなら、お尻の一件が後を引いている結果なので、双方の組み合わせは大失敗ということになります。

脚本家はこの映画が長編劇映画第一作で、監督も何本かヴィデオ作品を作った後、これが長編劇映画第一作となっています。そのせいで、「意余って力足らず」だったり、意味も無い馬鹿げた撮影・編集をしている部分がそこかしこにあります。小津安次郎を真似たようなエンプティ・ショット(誰もいない空舞台)は、最初「あれ!」と思わされますが、小津の場合の「時間経過」や「存在すべき筈の人物がいないことへの愛惜」といった効果ではなく、家の間取りを説明するようなショットになり下がっています。異常に長い暗転も映画のリズムを壊していて失敗。

この映画には主役の男女によるセックス・シーンが何度も出て来ますが、物語とあまり噛み合っていません。彼らが愛しあっていることを表現したいなら、表情やちょっとした仕草、台詞でも可能なので、何も何度も裸で絡まり合う必要はありません。脚本家と監督は観客の理解力を信頼せず、全てを丁寧に露骨に説明したがる性格のようです。

なお、メイン・タイトル前に裏声でヨーデル風の叫び声を挙げる男が二人出て来ますが、これは本編には登場せず、それが何なのか、物語とどう繋がるのかは全く説明されません。説明好きな脚本・監督にしては、不思議なあしらいです。

(June 23, 2007)





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