[Poison]

Finian's Rainbow

フィニアンの虹

【Part 2】

Francis Ford Coppolaがこの映画について語っているところによれば、キャストもアート・ディレクタも自分で選べず、編集や後処理も自由にできなかったため、非常に欲求不満だったそうです。唯一の収穫は、この映画制作中にGeorge Lucas(ジョージ・ルーカス)と出会ったことだけだったとか。

とはいえ、29歳の青年が監督したとは思えない立派な映画です。物語は他愛ないファンタジー映画ですが、ミュージカルのお話とはそういったものでしょう。

一つだけ「Francis Ford Coppolaにふさわしい」と思えるのは、お話に人種問題が絡むことです。実は映画が公開された1968年といえば、キング牧師が暗殺された年です。つまり公民権運動はほぼ成功し、黒人のパワーが最大の盛り上がりを見せていました。そういう時期としては、この映画の人種問題は到底プロパガンダとは云えない程度のささやかなものですが、「自分が黒人になってみれば、黒人の痛みが分るだろう」というのは、少なくとも当時は良心的メッセージだったでしょう。ま、それも原作にあることでFrancis Ford Coppolaが付け加えたことではありませんが。

人間になりたい妖精レプリコンが黒人にされた上院議員を慰め、「でも、あんたは人間だ。色が黒くても人間なんだからいいじゃないか」と云います。人間であることに皮膚の色は無関係であるという痛烈なメッセージです。

この原作が時代を感じさせるのは、小作人達がメンソール煙草の開発・栽培を計画していることです。問題はメンソール煙草が煙を出さないことでしたが、クライマックスの火事で煙が出ることが分ってハッピー・エンドの要素の一つになります。喫煙が敵視されている現在からすると、この部分は非常に馬鹿げて見えてしまいます。原作者には予測出来ない時代の流れだったわけです。

普通、一つのナンバー(歌曲)は同じ背景の前で歌い、踊られるものですが、この映画の一部ではどんどん変わる背景で映画的にカッティングされています。ちゃんと口は歌にシンクロしていますので、入念に計算されたコンテに基づいて撮影されたわけです。こういう手法もあっていいのですが、この場面が成功しているか?というと疑問です。「舞台では出来ない映画の強味」という理屈は分りますが、イメージ的にうまく流れていません。これでは映画の強味とは云えません。

私は個人的にTommy Steeleのような芝居は嫌いです。コミック・リリーフということを意識し過ぎたためか、いつも同じ様な笑顔を浮かべて一本調子。歌い方も大袈裟で下品に聞こえます。

一本調子と云えば、聾唖者だが踊りで意思を表現する娘の踊りも、いつもくるくる廻るだけで芸がありません。

三つの願いを叶えてしまった金塊はただの屑鉄になり、Fred Astaireの野望は頓挫しました。娘の結婚生活を邪魔しないようにという配慮からか、彼は一人で村を去る決意をします。大ロングで豆粒のように小さくなっても、彼が踊っている姿が分ります。最後の主演作にふさわしいラスト・カットです。

(May 19, 2002)





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