【Part 2】
先ず、冒頭で目まぐるしく提示される事件のイメージ(これは、後にもう一回出て来ます)について。なぜ、目にも止まらぬ速さで編集されているのか?私の推測ですが、何が「事件」なのかは、一応観客に画面で見せなくてはならない。しかし、告発側の云う通りストレートに描いたのでは事実と思い込まれてしまう。そこで、何がどうなっているのかよく分らないほど急速にカットを刻んで、「とにかく貨物列車に便乗している渡り者たちの間で暴力沙汰があった」というイメージだけを出すことにしたのだと思います。よく見ると、この一連の映像の中にはレイプはおろか、女性たちと黒人たちの遭遇すら混じっていません。監督とすれば、両者の間に何もなかったと観客に思わせてしまうのも避けたかったのでしょう。何かあったのか、なかったのか、それがこのドラマの焦点なのですから。
製作総指揮も務めるTimothy Huttonが適役だったか、ちと疑問です。彼の歩き方がガニマタで妙に軽く、有名な敏腕弁護士という感じがしません。彼の台詞廻しも問題です。時々、もの凄く低い声(呟くような声)で話すので聞き取れないのです。彼とすれば一本調子じゃない芝居をしているつもりなのでしょうが、聞き取れないのでは仕方がありません。第一、法廷では速記者に聞き取れるように証人尋問を行なうべきであって、囁くような質問をしていい筈がありません。彼の芝居は妥当とは思えません。
普通なら、こういう場合、私はDVDの「字幕」をONにするのですが、このDVDにはスペイン語の字幕しか用意されていないのです。スペイン語じゃ、「シ、セニョール」ぐらいしか解りません:-)。
ついでですが、このDVDはワイドスクリーンの筈なのに、左右両端を詰めているのです。この映画には何回か人物を左右両端に配置した画面が出て来るのですが、顔が見切れています。こういう撮影がある筈はありません。こんな処理をされちゃ撮影監督が泣くでしょう。
映画にはシカゴの新聞記者(黒人青年)が登場するのですが(何度も出て来る)、彼の役割が何なのかさっぱり解りません。意味ありげに出す必要はなかったと思います。
さて、物語の続きです。裁判の経過では弁護側が圧倒的に優勢だったのに、白人ばかりの陪審員たちは被告は有罪・死刑と結論づけます。弁護士Samuel Leibowitzはショックのあまり、口もきけず、立ち上がることすら出来ません。負けを覚悟していた検事でさえ呆気に取られ、弁護士の方を気の毒そうに見やるほど。被告の無罪を確信していた裁判長も、(『アラバマ物語』の裁判長同様)腹立たしそうに裁判終了を宣し、ドアの前でSamuel Leibowitzを見返りながら残念そうに退廷します。
事実、第二審はそういう結果だったので、映画も忠実に描いているわけです。『アラバマ物語』の弁護士Gregory Peck(グレゴリィ・ペック)も証人調べでは圧倒的に優勢だったのに、レッドネックで黒人蔑視の陪審員たちが黒人被告を有罪にしました。どちらの映画も、根強い人種偏見を告発していると云っていいでしょう。ま、この映画が製作された2006年に、そういう告発の意味があったかどうかは疑問ですが。
後日談ですが、第二審の裁判長James Hortonは陪審員たちの有罪判決を無効にし、弁護側の再審理要請を認めるという異例の挙に出ます。これは彼の死後、合衆国大統領から「勇敢な行動」として讃えられることになるのですが、当時はアラバマ州民の不信をかい、James Hortonは二度と判事の座につけませんでした。しかし、彼の息子によれば、James Hortonが彼の行動を後悔したことは一度もないと漏らしていたそうです。
結局、この事件は四審まで行きましたが、どれでも黒人たちには有罪・死刑が宣告されました。中には知事権限で赦免されたり、終身刑に変更されたり、レイプの嫌疑を減免されたりして社会復帰出来た者もいれば、脱獄を繰り返して病死したりした者もいたそうです。当時のアラバマ州で白人女性をレイプした黒人には死刑が普通で、終身刑や刑の減免はこの'Scottsboro Boys'事件が初めてだったそうです。
検事側の証人Victoria Priceは、1982年に亡くなるまで終生「レイプされた」という自説を変えなかったそうです。実際には、彼女とその女友達はどちらもテネシー州の売春婦だったことが分っています。彼女たちは、当時のレッドネックたちに利用されたのでしょう。白人たちは黒人が自分の妻や娘をレイプするのを恐れ、「黒人が白人女性を犯せば死刑」という鉄則を確立しておきたかったのだと思われます。
(April 02, 2008)