[Poison] Daughters of the Dust
『自由への旅立ち』

【Part 2】

物語の結末を書きますと、島に住んでいるインディアンと恋仲の娘は島に残ることにします。娼婦のBarbara-Oは、一挙に全員いなくなると老婆Cora Lee Dayが可哀想だということで、当分残ることにしたようです(詳細は語られない)。娼婦とはいえ、文明社会に生きていることを誇っていた筈の彼女にそんな人情味があり、固い絆で結ばれていた筈の他の家族がCora Lee Dayを見捨てて行くという皮肉。それまで「アメリカ本土の暮らしを体験した者」vs. 「島の生活しか知らない者」という対比があり、どちらかと云えば前者に属する人々は傲慢のように描かれていましたが、最後に逆転するわけです。

Part 1では言葉の障害について述べましたが、こちらではストーリィ・テリングの障壁について記します。この映画は冒頭少女の言葉で始まり、数回その少女によるナレーションがあるのですが、私にはその少女が誰なのかさっぱり解りませんでした。監督のコメントを聞いて、やっとその子がAlva Rogersの大きいお腹にいる“未来”の子供であることが判明。で、時々画面を(意味も無く)駆け抜ける藍色のリボンを髪につけた少女は、この幻の少女であったことが解りました。監督によれば、この少女が過去(カットバック)と現在を繋ぐブリッジの役目をしているのだそうですが、私にはそのようには感じ取れませんでした。また、この子が風を呼んで(風を起して)曾祖母のCora Lee Dayを喜ばせるのだそうですが、これも独り合点に思えました。

登場人物の島の男女の多くは老いも若きも、手首の上まで青い色に染まっています。それは藍染めの作業によるものというのが素直な解釈なのですが、監督によればそれは奴隷時代の手枷のシンボルなのだそうです。いくらなんでも、映像だけ見てそう思う観客がいるとは思えません(いたら凄い)。

このところいくつかの「脚本・監督もの」(一人二役)を観ていますが、このテのものは得てして自分勝手で独りよがりなストーリィ・テリングをしていることに気づかされました。脚本家が監督もして「自分の思い通りに映画に出来る」という“自由”は、実はもろ刃の剣のようです。他人の目・手を経ないことが安直なストーリィ・テリングを生むのではないでしょうか。自分で立派な脚本を書ける黒澤 明にしても小津安二郎にしても、誰かと「共同脚本」ということでブレーン・ストーミングによって脚本を練り上げ、名作の数々を作りました。他人を説得し、他人の思考を経ることによって、脚本が独りよがりでなく一般の観客大勢を納得させる内容になるのだと思います。「脚本・監督もの」は要注意です。

(February 01, 2007)





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