[Poison] Cross Creek
『クロスクリーク』

【Part 2】

この映画の中でMary SteenburgenがPeter Coyoteに出すデザートはpecan pie(ピカン・パイ)です。ピカンはアメリカ中部・南部に自生するクルミ科の木で、秋に胡桃に似た実をつけます。木から落ちた実を拾って、クルミ割りで割り、尖った道具を用いて実をほじくり出します。けっこう面倒な作業です。食料品店ではもうほじくり出し済みのピカンも売っています。ピカン・パイはカスタード・パイの上にピカンを敷き詰めて焼いたもので、アメリカ南部の名物料理の一つです。

DVDのMary Steenburgenの回顧談によると、この映画の70〜80%はハンドヘルド(手持ちカメラ)で撮られたそうです。彼女は照明の範囲から逸脱しない演技に慣れていたので、最初の立ち位置から動かないように注意していました。すると撮影監督のJohn A. Alonzo(ジョン・A・アロンゾ)が「どうして動かないの?」と聞き、「あなたが動けば、ぼくはどこへでもついて行くのに」と云ったそうです。「当時はまだステディキャム(Stedicam、移動撮影用防振装置)は一般的でなかったが、John A. Alonzo自身がステディキャムだった。彼はカメラとダンスするように動き廻った」と彼女は云っています。

ステディキャムは劇場映画の世界では'Rocky'『ロッキー』(1976)で初めて使用され、'The Shining'『シャイニング』(1980)で世界的に有名になったそうです。こちらの'Cross Creek'は1983年ですから、John A. Alonzoが使おうと思えば使えた筈ですが、彼はビクともしない腕と流麗な歩き方が出来たのでしょうね。私のカメラマン時代の先輩にも手持ちカメラの名人がいました。この方も自分の腕と足で流れるような移動ショットをしていました。私などはどうやっても少し揺れてしまいがっくりしたものですが、私の足は右脚が1センチほど短いのでこれは仕方のないことだったようです。

映画'The Yearling'『子鹿物語』と全く同じお話が出て来ます。『子鹿物語』の少年とは違ってこちらでは少女ですが、原作者が見聞きした実話は少女だったことが判ります。それはそれで『子鹿物語』の裏話としては興味深いのですが、少年・少女という違いを除けばストーリイは全く同じなのです。『子鹿物語』を観ていない人にはいいでしょうが、観ていると話の先が読めるので興味が薄れてしまいます。

その少女の父が死ぬ件がよく理解出来ません。娘が可愛がっていた鹿ですが、小屋を抜け出しては家庭菜園の苗を食べてしまうので、「もう飼ってはいけない」と何度も娘に宣告します。ある日、父親はついに決心して鹿を射ち殺してしまいます。それは家族のためでもあるので仕方がないのですが、彼には娘の悲しみが解るので自棄になって酒をあおり馬を走らせます。町の人々が玉突き場で笑いさざめいているのを聞いていた彼は、突如そこのガラス窓に酒瓶(かなり大きい)を投げつけて破壊します。家へ戻り、娘の名を呼んで荒れ狂います。娘は森の中に行ったまま帰っていないので、彼はまた馬で森へ。夜半に焚き火している彼に「おい、シェリフだ。(持っている)銃を置け」と声が掛かります。「これが欲しいのか?」と彼が銃を差し出した途端シェリフの銃が火を噴き、父親は殺されてしまいます。先ず、何の関係もない玉突き場の窓を割る行動が不可解。次に、シェリフが「手を上げろ」ではなく、「銃を置け」というのも不可解。「銃を置け」と云っておいて、父親が銃を動かすとすぐ発砲するのも不可解。実話なのかどうか知りませんが、こうも不可解なことが続くのは脚本のお粗末さと云えるのではないでしょうか。

音楽はLeonard Rosenman(レナード・ローゼンマン)。彼は'East of Eden'『エデンの東』(1955) 、'Rebel Without a Cause'『理由なき反抗』(1955)、'Fantastic Voyage'『ミクロの決死圏』(1966) などの音楽を手掛けた人で、ここでもかなり昔のロマンス映画のような音楽を書いています。それ自体は素晴らしいのですが、何故か画面とそぐわない気にさせられます。描かれている時代が問題なのではなくて、もう映画の文体(脚本・演出・演技・撮影・編集)などが50年代とは全く変わってしまい、画面と50年代風の音楽の組み合わせは木に竹を継いだような感じになるようです。

最近、'Miss Potter'『ミス・ポター』(2006)という、『ピーター・ラビット』の作者である女性が世に出るまでの映画を観ました。この'Cross Creek'と似たような話ですが、時代が1902年頃という設定ですから出て来るロマンスも大甘なのです。しかし、主演のRenée Zellwegerの演技がどう見ても1902年頃の女性の表情・行動に見えません。もちろん、映画は作られた時代を反映するものですから、いま昔の映画そっくりの文体を選ぶのはナンセンスです。私が云いたいのは、もはや大時代の大甘ロマンスは映画に出来ないのではないか?映画の文体が変わってしまった以上、Leonard Rosenmanの音楽に相応しい映画はもう存在せず、James Hornerなどに頼むしかないのではないか?ということです。

(September 22, 2007)





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