[Poison] The Birth of a Nation
『國民の創生』

【Part 2】

原題'The Birth of a Nation'(或る國の創生)とは何なのかというと、これが理解出来ません。『K.K.K.の創生』なら、非常によく分ります。この映画は'The Clansman'として公開され、一ケ月後に'The Birth of a Nation'と改題されました。ですから、もともと、K.K.K.が主人公の映画だったのです。何故、改題されたかというと、封切りを観た原作者が「素晴らしい!これは“國の創生”と呼ぶべきものだ!」と叫んだからだそうです。この原作者にとっては、南北が融合し、一つになったことが“國の創生”のようですが、戦争前はもともと一つだったわけですから、'The Rebirth of a Nation'『或る國の復興』と呼ぶのが正しかったでしょう。しかし、K.K.K.が復興の希望の星という扱いは、どう考えても珍奇です。

第二部の後半は囚われの身となったLillian Gishを救い、荒野の一軒家で黒人兵達に包囲され窮地に立つCameron一家を救うため、K.K.K.の大軍団がまるで西部劇の騎兵隊のように駆けつけます。この映画ではK.K.K.が正義の味方なのです。

現在K.K.K.は人種差別の象徴であり、テロ行為による恐怖で人々を縮み上がらせる秘密結社というのが、世の常識ですが、ここでは180度逆転しています。思い上がった黒人たちの無教養、無作法な言動が先ず描かれ、“少数派”の白人たちが秩序を得るための抵抗としてK.K.K.を組織したという順番になっているため、非常に説得力(?)があります。後に、K.K.K.がこの映画を新会員募集の道具として使ったというのも、頷けるほどです。その意味では、この映画は「政治的プロパガンダ」とも分類されます。

なぜ、D.W. Griffithがこのような物語を映画化したかですが、彼は南軍大佐の息子だったそうです。そんな彼には何ら違和感の無い内容だったのではないでしょうか。実在のNathan Forrest(ネイサン・フォレスト)という南部の将軍は機略縦横の英雄でしたが、戦後はK.K.K.のリーダーとなりました('Forrest Gump'『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1994)の「フォレスト」は、この将軍にちなんで命名されたもの)。多分、D.W. Griffithにとっては、こういう人物が素直に英雄だったのでしょう。

この映画が封切られる六年前に創立されたNAACP(全国黒人地位向上協会)は、当然この「黒人蔑視、K.K.K.礼賛」の映画を攻撃しました。各地で黒人の暴動が起き、裁判沙汰や劇場への妨害などが数年も続き、D.W. GriffithもK.K.K.抜きのヴァージョンを作成するハメに陥ったそうです。

人種問題を別にすれば、南北両側の家族の運命を描いているだけに、そのどちらにも与しないという公平な視点は貫かれています。リンカーンは立派で、しかも人間味ある存在として描かれていて、南部の家族から「我々のベスト・フレンドが亡くなった」とまで云われます。

急進的な政治家Ralph Lewisは副知事となった黒人の手下(黒人と白人の混血児)が「私は白人と結婚します」と云うと、「そりゃあいい。頑張れ」と激励しますが、「相手はあなたのお嬢さんです」と告白されると、「冗談じゃない、駄目、駄目!」とにべもなく断ります。平等主義を理念として掲げるが、娘は黒人にはやらないという手前勝手さを痛烈に揶揄しています。こうした部分は原作そのままなのかも知れませんが、ドラマ作りとしての巧妙さを感じさせます。

“映画的手法の創生”はいいのですが、K.K.K.礼賛の内容が問題です。百歩譲って、この映画が描いた当時は白人が黒人に圧迫されたのが事実であり、白人による巻き返しの手段がK.K.K.だった、彼等は悪の権化ではなかったと仮定しましょう。しかし、現在に至るK.K.K.の活動はNAACPの活動家の暗殺を含むテロリズム以外の何物でもなく、K.K.K.は人々の自由・平等、言論の自由を圧殺する存在です。現在の時点から振り返る『K.K.K.の創生』は、やはりおぞましいものでしかありません。例えばナチス・ドイツの創生を栄光きわまる如く描いた映画が、ユダヤ人大量虐殺という狂気の行いを知った後で見れば、やはりおぞましく感じられるのと同一です。

ただ、「だからこの『國民の創生』は駄目だ」と云い切ることは、私には出来ません。なぜなら、黒人問題には組織や識者の後押しがあるものの、そういった後ろ盾が少ないアメリカン・インディアンのことを考えずにはいられないからです。もし、アメリカン・インディアンを残虐・非道の民族として描いた映画を認めてはいけないとなったら、John Ford(ジョン・フォード)西部劇の99%は人種差別であると非難されて仕方がありません。しかし、私にはその99%を捨て去ることは出来ないし、そのうちのいくつかは“名作”であると断言したい立場です。

D.W. GriffithにしてもJohn Fordにしても、彼等は政治家でも思想家でもありません。若くして役者になり、監督になったような、ただの芸能人なのです。彼等に完璧な思想家、歴史家としての視点を期待しても無駄でしょう。彼等はエンタテインメントの供給に長けていただけなのです。この映画の黒人をインディアン、K.K.K.を騎兵隊と置き換えてみて、誰も違和感を感じないのであれば、この映画を葬り去ることは出来ません。

(February 04, 2002)





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