高野流居さんを偲ぶ  関 南沖

いはらき新聞 昭和49(1974)年7月25日


失って知る偉大さ


高野流居さんが亡くなって一年八ヶ月が過ぎようとしている。無病息災、痩身健脚、眉毛はふさふさとして長く見るからに長寿の相に恵まれた好爺で、自らも長寿を念願し健康を自負していた。病気は恐ろしいものである。腹痛を訴え、手術となり、悪性の病巣があるとなった時、長寿の予約は解消してしまう。僅か十カ月足らずの闘病で現世を去るに至った流居さんの体、神ならぬ身には知る由もない命運という外はないだろう。七十歳というのは、書道家にとって全くこれからというべき年齢である。

流居さんは茨城県竜ケ崎の出身、一生の勤めを常陽銀行に果たしたが長い激務のかたわら若い時から書道の研鑽に努め、遂に一家を成すに至った。定年退職後は居を水戸にトして書道人として活躍、社中を流門と称し、道場の入り口には「夢庵」の木額自刻を掲げて後進の指導育成に尽くし、特に大人の門下を主にし、子供は従にしていたが、どちらも多数に達して寧日なきありさまであった。

若いころからテニスを好み、退職後もしばしばテニスクラブの競技に腕を振っていた。登山も大好きで二人の息子とともに剣岳クラスの険峰に挑むのを年中行事としており、爽快な征服感と不老の体力を自慢にしていた。若い時から常に余暇の利用のすばらしさに敬服する。

夢庵が出来てから数年、ここを根城にして、われら書道人十人足らずが誘い含って「石鼓印社」を結び、生井子華(いくい・しか)先生を労して篆刻(てんこく)の稽古を始め十余年におよんだ。篆刻を始めても、木額を彫っても、仲間にぬきんでた風格とまとまりのある作品を示し、篆刻では三年目にして毎日賞を獲得してしまったことは同人景仰の的であった。謡、民謡、詩吟などにも一家の美声と調子とをもって聴者を魅了し、書画、印材、硯等の蒐集にも優れた鑑識眼と独自の意見を持っており、常に眼を光らせて何かを探してやまなかった。絶えず新しい芸境を求め、自己内容の進展を企図していた流居さんの先導的処世態度はわれわれの惰眼に警棒を喰(く)わすものであった。

書は篆・隷・楷・行・草・かなの各体をこなしたが、流居さんの本当の魅力は調和体(漠字かな交じり文)だったと私は思う。草書とかなを交えて古文をものにした小品などには、及び難いリズムと古格のあふれる風調を示して人をひきつけるものが多い。若いころ良寛を好み臨書研究に頭没したそうであるが、それが実っているように思う。同時に手紙や葉書においては、現代の書道家中まれにみる風格の手腕家であったのもその結果ではなかろうか。

広い視野と豊富な意欲に生きた流居さんはそれだけ人情にも厚く、親分肌の世話好きでもあった。私は個人的に随分立ち入った相談まで持ち込んだが、流居さんは明快な判断を下し、即座に実行に移して大きな力を貸してくれたことが次々に思い出されて感謝にたえない。

茨城県展が発足し書道が参加した昭和二十四年以来、審査員、運営委員を歴任、その母体となってきた「茨城談書会」の結成に参画し、その世話役や事務所を引き受けてきた。茨城談書会員にさらに新進作家の強力メンバーを加え「いはらき書作家展」を創始し本年は第十五回展を催したが、このアンデパンダン式同人研修の場を作ったのも流居さんの発案であった。この両者の世話役一切を引き受けながら後進の引き立てに尽くした功績は、県下書道人のひとしく賛仰するところである。流居さんを失った県書壇は誠に大きな穴をあけられた思いで、これからの県書壇の方向に寂しさを感じないわけにはいかない。

流門の各位が涙をぬぐいつつこの度、流居先生の遺作顕彰展を催し、併せて流門一同の健在を誇る制作展を兼ねて、江湖に示したことは誠にうるわしい快挙である。流居さんの数々の代表作に触れ、門下諸氏の意気盛んなのを拝して感無量である。流居さんの人徳と技量とがよみがえって天下をへいげいしている。ご遺族のみなさんも喜ばれたこととお察ししながら一筆草して、地下の流居さんに感謝を捧げる次第である。

(筆者は茨城大学教授、故人)