June 10, 2024
●知られざるBobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)
'The Grand Slam:Bobby Jones, America and the Story of Golf'
by Mark Frost (Hyperion, 2004, $15.95)
この本のBobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)によるグランド・スラム達成の一部始終は既に紹介してあります(この項の末尾にリンクあり)。今回はこの本に描かれた神童のようだった少年時代からアマチュアでありながら全米一のゴルファーとなるまでのいくつかのエピソードを紹介します。
一体この著者は何百冊の本を読んだんだろうと思われるほど、20世紀アメリカの歴史、政治情勢、スポーツ界の趨勢、そしてBobby Jonesとその周辺について、実に詳細に記述しています。
・BPNTHWAM
著者によれば"Best Player Never To Have Won A Major"(メイジャー優勝経験の無いベスト・プレイヤー)の最初の人物はBobby Jonesだったそうです。父親がメンバーとなったアトランタ郊外のEast Lake C.C.(イーストレイク・ゴルフ場)で子供時代から遊んでいたBobby Jones(1902~1971)は、数々のアマチュア・トーナメントに優勝していたものの、1923年(21歳)になるまでメイジャー(全英・全米オープン、全英・全米アマを含む)優勝とは無縁でした。
問題は彼の癇癖にありました。常に優勝候補と目されていながら、何かミスをするとクラブを投げたり、そのミスによってメンタルに絶望的になってしまったのです。
1921年のSt. Andrews(セント・アンドリュース)での全英オープンの三日目、No.11でのティーショットをBobby Jonesは脱出困難で有名なバンカーに入れてしまいました。一打目で脱出出来ず、二打目も失敗。三打目にも失敗した彼はボールを拾い上げ(ルール違反)スコアカードを破いて近くの川に投げ捨てました。プレイは最後まで続けたものの、スコアカードを提出せず自ら失格としました。帰国後、彼はR&Aに勝手な真似をしたことを詫びる陳謝の手紙を書きました。
同じ年にミズーリ州セントルイスC.C.で開催されたUSGA主催のU.S.アマチュア・トーナメント。このマッチプレイ・トーナメントの三戦目、アプローチ・ショットに満足出来無かった彼はクラブをバッグ目掛けて放りました。不幸なことにバッグで弾かれたクラブは弾んで観客の女性の脚に当たってしまいました。彼は謝りましたが、当の女性よりも彼の方が動揺してしまいました。この事件を無視出来なかったUSGA会長は「あなたが癇癪をコントロールする術(すべ)をマスターしない限り、USGAの催しには参加させない」という警告の手紙を送って来ました。
・Old Man Par(オールドマン・パー)とのマッチ・プレイ
Bobby Jonesが少年の頃、ホームコースEast Lake.C.C.へやって来た英国のプロHarry Vardon(ハリィ・ヴァードン)が地元のレッスン・プロ二人と公開試合を行った際、Bobby JonesはつぶさにHarry Vardonのプレイを見て心に刻みました。ロング・ドライヴで観衆を唸らせる相棒のTed Ray(テッド・レイ)と対象的に、淡々とパーを積み重ねて行くHarry Vardon。Bobby JonesはHarry Vardonが対戦相手とではなくあたかも"Old Man Par"(パー爺さん)とのマッチ・プレイをしているかのように思えました。
相手が妙技を見せようが失敗しようが我関せず。常にスコアカードと同じ打数で廻るのが"Old Man Par"(パー爺さん)のプレイです。
この考え方を発見したのは早かったのですが、若いBobby Jonesはともすると"Old Man Par"の存在を忘れて対戦相手の出来・不出来に反応してプレイしがちでした。真に"Old Man Par"(パー爺さん)とのゴルフに専念することが癇癪を抑えることに繋がりました。
【参考】「Bobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)の“オールドマン・パー”の発見」(tips_170.html)
・カラミティ・ジェーンとの出会い
1923年のU.S.オープンはニューヨーク州のInwood C.C.(インウッドC.C.)で開催されました。Bobby JonesのホームコースEast Lake.C.C.専属レッスン・プロのStewart Maiden(スチュアート・メイデン)は当時Bobby Jonesを応援するため、主なトーナメントに同行していました。彼がEast Lake.C.C.で教えるようになる以前は、彼の兄のJimmy Maiden(ジミィ・メイデン)が専属でしたが、1907年にジミィはEast Lake.C.C.を弟に譲って、インウッドC.C.の近くの某ゴルフ場専属プロとなっていました。兄弟は久し振りの再会を喜び、二人揃ってBobby Jonesを応援することにしました。
ジョージア工科大学を卒業した21歳のBobby Jonesはハーヴァード大学で文学を学んでいました。この大学は勉学一本槍で研究課題や宿題も多く、気ままにゴルフなど出来ない厳しさでした。それが祟って、インウッドC.C.での練習ラウンドでは80を切れない始末。
メイデン兄弟はどうすればBobby Jonesを優勝させられるか相談しました。「グリーンだ!」パットさえ良ければ伸び伸びとフル・スウィング出来る。兄のジミィは自分のプロ・ショップの物置から古いヒッコリー・シャフトのパターを探し出し、Bobby Jonesに試させました。Bobby Jonesは練習グリーンに赴き、25回のパットをし、そのうち24回を成功させました。当時は持ち主がパターに名前をつける習わしがあり、ジミィ・メイデンはそのパターを"Calamity Jane"(カラミティ・ジェーン)と名付けていました。【註:映画の題名でもありますが、意訳すると「災厄女ジェーン」】
後にこのパターを手にしたJack Nicklaus(ジャック・ニクラス)は「これはパターというより2番か3番アイアンに近い」と云ったそうです。
1925年、Bobby JonesのホームコースEast Lake.C.C.のクラブハウスが漏電のため火災を発生し、展示物であったBobby Jonesの優勝カップから彼の愛用のクラブ一式までも焼けてしまいました。たった一つ、パターのカラミティ・ジェーンだけは生き延びました。なぜか?Bobby Jonesが自宅のベッドでカラミティ・ジェーンを抱いて寝ていたからでした^^。
1926年、今で云えばDave Pelz(デイヴ・ペルツ)のような人物が振り子のような仕掛けのパター検査器具を使ってカラミティ・ジェーンを調べたところ、いつの間にかフックフェースになっていてボールをプルしがちになっていたことが判明しました。Bobby Jonesは即刻スクウェア・フェースのカラミティ・ジェーンを作らせました。ですから、後のグランドスラムは二代目カラミティ・ジェーンで達成されたことになります。
・パット法の完成
"Calamity Jane"は1923年のU.S.オープン優勝に役立ちましたが、完璧とは云えませんでした。彼がアトランタの近くの保養地オーガスタを訪れた時、アマチュアでパット名人だったWalter Travis(ウォルター・トラヴィス、1862~1927)に遭遇しました。Walter Travisは病んだ肺をいたわるべく冬季には暖かい南部を訪れていたのです。1916年にWalter TravisはBobby Jonesにいつかパット法を教えると約束していたので、Bobby Jonesはその約束を果たして貰うことを切望し、練習グリーンでのパットへ赴きました。
Walter Travisは先ずBobby Jonesのパッティングがボールを”打つ”スタイルであり、スムーズに振り抜くものではないことを指摘し、それはアメリカ南部特有の強(こわ)いバミューダ芝には向いているが、ベント芝には通用しないと断言しました。彼はBobby Jonesのセットアップも抜本的に変更し、両足をほぼくっつくぐらいにしました。体重を左にかけて安定させ、パターヘッドをラインから外すのを防ぐ。グリップもスタンダードなオーヴァラッピング・グリップに変更し、「ボールの後部に画鋲を叩き込む感覚を得よ」と説き、テンションを中和するための呼吸のコントロール法も伝授しました。
Walter Travisのパッティングの名声を知り抜いていたBobby Jonesは、以上の助言を真摯に受け止めました。Walter Travisの教えを完全に実行するには時間がかかりましたが、これ以後パッティングはBobby Jonesの弱点ではなくなりました。
彼は、Walter Travisの”不運を待ち構えて驚かない”というペシミスティックな考え方の影響は受けませんでしたが、不運によって自分を責めるべきではないことを学びました。
こうしてグランドスラムへの準備が整ったのです。
【参考】
・「Bobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)のグランド・スラム(パート1)」(tips_200.html)
・「Bobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)のグランド・スラム(パート2)」(〃)
・「Bobby Jones(ボビィ・ジョーンズ)のグランド・スラム(完結篇)」(〃)
(June 10, 2024)
●その後の飛距離増
ある日のNo.1(320ヤード)パー4、私のティー・ショットはいくら探しても通常の位置に見当たらず途方に暮れました。ボールはなんと残り118ヤードまで飛んでいたのです。計算上の飛距離(ラン込み)は202ヤードで、私にとっては前代未聞の出来事でした。やや上りのこのホールの私のティー・ショットは、残り170ヤード付近が普通だったのです。
それは前回お伝えしたPaul Wilson(ポール・ウィルスン)の《スウィング速度を上げる秘訣は、手・腕をゆったりさせ、下半身主導のダウンスウィングをする》を実践したからに他なりません。
残念ながら、その後のホールでこのような目覚ましい飛距離は得られませんでした。「よし、飛ぶんなら飛ばそうじゃないの!」という気になったせいもあります。飛ばそうと思ってはいけないにもかかわらず^^。
もう一点。後から気がついたのですが、そのティー・ショットで私はスウィングのトップで一瞬の間(ま)を置きました。これは「トップの間(ま)」としてこのサイト開設の頃に色々工夫したことの一つでした。
私の個人的な考えですが、トップからダウンスウィングに移る際に一瞬の間(ま)を置くと、そこでエネルギーが充填されます。慌てふためいたような切り返しでは「エネルギー充填」は行われません。「トップの間(ま)」は逸る心を抑え、冷静に下半身のリードを待って手・腕が下半身に追随するダウンスウィングをお膳立てします。これこそ飛距離の秘訣のように思われます。
(June 10, 2024)
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