May 16, 2018

The Masters(マスターズ)創世記

 

メイジャー・トーナメントの一つなのに、オープンでなく招待制という特徴を持ち、その美しいコースと伝統によってプロ、アマを問わず愛されているマスターズ。大富豪Bill Gates(ビル・ゲイツ)でさえ十数年メンバーになれなかったという、敷居の高いコースAugusta National(オーガスタ・ナショナル)。ところが、このコースは大恐慌の時期に誕生したため、充分な数のメンバーが集まらず、工事費や水道代も払えず、倒産寸前の借金だらけ。そこで、メンバー集めの宣伝のためにトーナメントを開催してPRしよう…というのがマスターズ誕生のきっかけだった…というのですから、びっくり仰天です。

'Making The Masters'
by David Barrett (Skyhorse Publishing, 2012, $24.95)

この本には『Bobby Jones(ボビィ・ジョーンズ、写真)と、偉大なトーナメントの誕生』という副題が付いています。オーガスタ・ナショナルの生みの親はBobby Jonesでしたし、マスターズもBobby Jones抜きでは成立しなかったのです。

Bobby Jonesは1930年に全米アマ、全英アマ、全米オープン、全英オープンの四つを制覇すると、心身を磨り減らすトーナメントという舞台から引退する決意をしました。彼の夢は、生まれ育ったジョージア州のどこかに自分のゴルフ・コースを作ることで、引退後、弁護士としての仕事の傍ら、その計画と実現に時間を費やすことになりました。ホームタウンのアトランタから240キロ東南のサウス・キャロライナとの州境にあたるオーガスタで、広大な種苗園が売りに出されていました。最初その土地に目を付けていたのはあるホテル・チェーンで、そこにリゾート・ホテルと安直なゴルフ場を作ろうとしていました。しかし、大恐慌の煽りでその計画はおじゃんになり、Bobby Jonesと彼の協力者であるClliford Roberts(クリフォード・ロバーツ、ニューヨークの投資家)は、即刻その土地の買収に乗り出し成功しました。

 

Bobby Jonesに乞われた英国生まれのコース設計家Alister MacKenzie(アリスター・マッケンズィー)が、オーガスタのその土地を見て廻って気に入り、Bobby Jonesとの共同設計で青写真が作られました。大恐慌のせいで失業者が溢れていたため、人手を集めるには苦労せず、1933年にオーガスタ・ナショナルは完成しました。Bobby Jonesがコースの会長(President)となり、Clliford Robertsがコースの初代代表(Chairman)に就任。しかし、土地の買収とコースの造成に味方してくれた大恐慌は、今度はメンバー集めの敵となりました。全米の富豪たち数千人に招待状を送ったものの、ほとんど無視されてしまいました。2,000人のメンバーを見込んでいたのに、1932年の段階で会員はたったの66人しか集まらず、翌1933年になってもさらに10人増えただけでした。

メンバーが十分集まらないため、コース設計家Alister MacKenzieへの謝礼を半分に負けて貰っても分割払い、コース造成を担当した土木業者への莫大な経費の未払い、芝に散水するための水道代も市に未納のままで、オーガスタ・ナショナルの存立は風前の灯となりました。そこで、代表のClliford Robertsが一計を案じました。一流プロとアマを招待して、トーナメントを開催する。こうすれば、コースの名が知れ渡り、メンバーも集まるに違いない。いつしかそれに、引退したBobby Jonesが戦線復帰してプレイすれば、もっとPR効果が上がるし、多額の入場料収入も見込める…というアイデアが加わりました。Bobby Jonesはその案に乗り気ではありませんでしたが、コースの危機を救うためにはやむを得ないと覚悟しました。

オーガスタ市は、フロリダほど有数ではないものの、東部、中西部の金持ちたちに避寒地として売り込もうとしていました。しかし、リゾート地としては海が無いという弱点があり、競馬場や大編成のバンドが演奏するようなナイトクラブもありませんでした。代表のClliford Robertsはオーガスタ市の資金援助を願い出て、次のようなメリットをアピールしました。1) 30人のトップ・プロとアマが参加するトーナメントによって、一週間で二万人の観客を集められる、2) ホテルの宿泊客を呼ぶだけでなく、観客たちが当市で家屋を購入する可能性もある、3) Bobby Jonesの競技復帰という新聞報道によって、オーガスタ市の宣伝効果も計り知れない…等々。市長と市議会がそれに賛同し、目出たく資金援助が得られることになりました。

・1934年第一回マスターズ

1934年三月、第一回のトーナメントが開催されました。Bobby Jonesはマスターズ(名人たち)という呼称を使いたくないと考えていたので、名称は『オーガスタ・ナショナル招待』。スポーツ記者の一人が勝手にthe Masters(マスターズ)と呼び、次第にこれが広まって行きます。世界六ヶ国のプロ、アマに招待状が送られましたが、ほとんどが不参加。日本の宮本留吉と浅見録蔵も招待されましたが、彼らは来米しませんでした。しかし、大物で参加しなかったのはGene Sarazen(ジーン・サラゼン)ぐらいのもので、前シーズンのツァー優勝者20名のうち17人が参加することになり、有名プロとトップ・アマ全24名によるトーナメントとなりました。

練習ラウンドでBobby Jonesは65で廻り、四年のブランクにも関わらず優勝が期待されましたが、本番の緊張下で重篤なパッティング・イップスに見舞われ、Walter Hagen(ウォルター・ヘイゲン)と共に13位タイに終わりました。優勝者はミズーリ州出身の若者Horton Smith(ホートン・スミス、25歳)でした。

 

この最初のマスターズは、“避寒地”を売り物にしているオーガスタ市なのに、ギャラリーがオーバーコートを着るというかなりの寒波に襲われたため、チケット・セールスは期待はずれで、四日間の観衆は累計15,000人ぐらいしか集まりませんでした。

当時のメディアは借金だらけのオーガスタ・ナショナルの苦境に気づかず、Bobby Jonesの復活だけに焦点を合わせていました。そして、彼が「次のU.S.オープンにも出場するだろう」などと脳天気な噂を撒き散らしていました。Bobby Jonesがそれを否定したのは、云うまでもありません。

80を切れない英国人二人の存在によって、「“トップ・クラス”を集めたトーナメント」の謳い文句を疑問視する声があったため、招待の基準が明確化されました。翌年のトーナメントには、その基準を満たす138名に招待状が送られました。

トーナメントには成功したものの、オーガスタ・ナショナルの経済的苦境は依然として続いており、市水道局への借金も未払いのままであり、土木業者はツケの支払いを求めて訴訟を起す者まで出る始末。悪いことに、第二回トーナメントのための市の資金援助も75%に減額されてしまいました。

・1935年第二回マスターズ

前年の三月の寒気に懲りたトーナメント委員会は、開催を四月に変更。前回欠席したGene Sarazen(ジーン・サラゼン)も出場しました。出場したどころか、彼はかの有名なアルバトロス(ダブル・イーグル)で最終日三打差を追い上げて首位タイとなり、翌日の36ホールのプレイオフを制して優勝してしまいました。【参照】「Gene Sarazen(ジーン・サラゼン)のアルバトロス」(tips_170.html)

このアルバトロスとGene Sarazenの逆転優勝は世界的ニュースとなり、マスターズの名声を確立しました。誰しもが、Bobby Jonesの好プレイを期待していましたが、彼は昨年の13位タイより遥かに悪い25位に終わりました。

 

経済不況はなおも継続しており、巨額の借金のため、オーガスタ・ナショナルの抵当権請け戻し喪失という局面が訪れました。不況の最中にゴルフ場を買おうという物好きな入札者もなく、メンバーの五名が連名で買い受け、新たに"Augusta National, Inc."を設立し、新たな会員には株券を発行するシステムに改めました。これにより、オーガスタ・ナショナルは借金地獄から脱し、経済的に健全な基盤を得ることが出来ました。

1939年が重要な転機となりました。一人のビジネスマンが発起人となり、「マスターズを助ける会」'Business Men's Masters Tournament Association'を設立し、地元企業にマスターズのチケットを売る活動を始めたのです。それは地元の人々がマスターズ・トーナメントの恩恵に気づいたためにほかなりません。彼らは2,000枚のシーズン・チケットを売り捌いて、オーガスタ・ナショナルを助けました。1940年にはその倍の売り上げを達成し、代表Clliford Robertsを感激させました。

 

1962年には最終ラウンドだけの推定観客数でも38,000〜40,000人となり、1966年には前売りでチケットが完売するという状況になりました。

コースは、プロのプレイに耐える水準を保つため、毎年レイアウト変更やコース改造を行って、マスターズの名声を損なわない努力が継続されました。Clliford Robertsが参加者に対して最善のサーヴィスをしたせいで、参加者したプロ、アマ全てがこのトーナメントは特別であると認識するようになり、毎年欠かさず招待されることを期待するようになりました。

Bobby Jonesが1930年に全米アマ、全英アマ、全米オープン、全英オープンの四つを制覇した時、それは「グランド・スラム」と呼ばれました。しかし、Bobby Jones引退後はアマとプロの両方のトーナメントに優勝出来る可能性を持つ者はなくなり、グランド・スラムは死語同然となっていました。1960年にArnold Palmer(アーノルド・パーマー)がマスターズとU.S.オープンに優勝した時、あるスポーツ・ライターが、「Arnold Palmerが全英とPGA選手権に優勝すれば、現代版グランド・スラムだ」と書き、それが定着しました。マスターズがメイジャーの一つとして認知された瞬間でした。

(May 16, 2018)



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