September 17, 2017

Bernhard Langer(ベルンハード・ランガー)の少年時代

Bernhard Langerの自伝を読みました。今から14年前に英国で出版されたもので、ヨーロピアン・ツァーで圧倒的な強さを見せ、この後彼がアメリカに移住しPGAツァーに本格参戦しようという時期に書かれています。現在のChampions Tour(チャンピオンズ・ツァー)でもトップ・クラスなのですから、彼の息長い活躍ぶりは驚嘆すべきものがあります。

知らなかったので驚いたのですが、Francis Ouimet(フランシス・ウィメット)やGene Sarazen(ジーン・サラゼン)などと同じように、彼も貧しい家に生まれ、幼少の頃からキャディとして働いた一人なのです。

[Langer]

'Bernhard Langer: My Autobiography'
Bernhard Langer with Stuart Weir (Hodder & Stoughton, 2003, £7.99)

1945年、Bernhard Langer(ベルンハード・ランガー)の父Erwin(エルヴィン)は、徴兵されドイツ軍の下働きだったため、戦争犯罪人として他の囚人たち大勢と共に、ロシア軍が警備するシベリア行きの列車に乗せられていた。列車がドイツとチェコの国境近くで一時停止した時、Erwinと数人の囚人たちは命懸けでの脱走を決意し、再び発車し始めた列車から飛び降りた。運良く兵士の銃撃を免れたErwinは、その地域の農家で働いて生き延びた。

100年続いた農家のErwinの両親は、ロシア軍によって農地を没収され、南ドイツのAnhausen(アンハウゼン)に移住した。それを伝え聞いたErwinは両親の元に戻った。Erwinは煉瓦積み職人となり、結婚して長男と長女を得た。1957年、次男としてBernhard Langerが生まれた。

お小遣いなど貰えず、常に兄のお下がりを着せられる貧しい生活だった。彼の兄と姉は小遣い稼ぎにゴルフ場のキャディを始めた。八歳半になった時、Bernhard Langerもキャディとなった。

「私の最初の雇い主(ゴルファー)は後で知ったのだが、クラブ・チャンピオンだった。彼は忍耐強く、私のいくつかのヘマにもかかわらず、私の仕事に満足してくれた。彼がくれた2.5 DM(ドイツ・マルク)は、その後私が得たどの優勝賞金よりも意味深いものだった。私は雇い主のボールを必ず見つける“鷲の目を持つキャディ”として人気を得た。兄にとっては小遣い稼ぎのキャディだったが、私は次第にゴルフにハマって行った。

私の同級生たちは、私の『ゴルファーになりたい』という夢を嘲笑(あざわら)った。ゴルフは金持ちの遊びだったし、当時のドイツで煉瓦積み職人の子が、学校を出てすぐゴルファーになどなれるものではなかったからだ。

私はゴルファーたちのスウィングを見守り、それを練習場で模倣した。キャディはメンバーがくれたクラブを共同で使うことが出来た。それらは2番ウッド、3番アイアン、7番アイアン、そしてシャフトが曲がったパターであった。そのパターで練習したのが、私の長年にわたるパッティング・トラブルの原因だったかも知れない(^^;;。キャディが使えるクラブは7番アイアンまでだったから、ピッチング、チッピングやバンカー・ショットの練習をするのに適切とは云えなかった。

キャディがコースでプレイするには、一つの手続きが必要だった。クラブ・プロの目の前でボールを打ち、認可を得るのである。私がゴルフ場に足を踏み入れて三ヶ月後(九歳の誕生日の一ヶ月前)、私は勇気を出してクラブ・プロに審査を申し入れ、コースでのプレイを許された。それ以後、私はキャディ・トーナメントに出るようになった。14歳の時、73で廻って優勝のチャンスがあったのだが、一打差で逃してしまった。

私はレッスンを受けたことなどなく、キャディの控え室に貼られていたJack Nicklaus(ジャック・ニクラス)の六駒の連続写真だけがお手本であった。それを記憶し、練習場とコースとで再現しようと努めた。キャディを始めて四年後、貯めておいたお金で最初のクラブ・セットを購入した。私はそれが自慢で、まるで黄金とダイアモンドで作られているかのように磨き上げた。

両親は私を兄と姉同様別の町にある高校に通わせる決意をした。だが、ゴルフにハマっていた私は英語と数学の試験にわざと失敗し、元の町の学校に戻されるように図った。それによって、相変わらず毎日午後ゴルフ場に行けることになった。

14歳で、学校生活が終了間もない頃、私は今後の進路を決めねばならなくなった。私はずっとゴルフを続けたかったが、この町で並の安月給の職に就いたら、ゴルフ場のメンバーになどなれっこない。ゴルフを継続出来る唯一の途はゴルフを職業にするほかないように思えた。それを両親に話すと気違いではないかという顔をされ、妥当な職に就けと予想通り意見された。職業相談所に行ったが、『プロフェッショナル・ゴルファーという職は見当たらない』と云われた。

ゴルフ場のメンバーの一人が、ミュンヘンのゴルフ場でレッスンを受けていた。彼がそこのクラブ・プロのHeinz Fehring(ハインツ・フェーリング)がアシスタントを探していると教えてくれた。ミュンヘンに電話すると会いに来いと云ってくれた。私は両親を説得し、一緒にミュンヘンに赴いた。クラブ・プロとクラブの理事長が会ってくれ、私はアシスタントの職をオファーされた。信仰心篤い母は近くにカソリックの教会があるので安心したようだった。両親は私が夢を追い求めることを認めてくれた。私は三年契約の書類にサインした。私は15歳になる一ヶ月前の少年に過ぎず、家を出て大人の世界に船出するにはまだ早く、何度もホームシックになった。

私の主な仕事はショップで働くことで、週に一度ビジネス・スクールに通うことも義務づけられていた。しかしクラブ・プロHeinz Fehringは、私に数ホールのプレイや練習ボールを打つ時間を与えてくれ、私のグリップや脚の動きを直してくれた。六ヶ月後には、私はメンバーへのレッスンやプレーイング・レッスンを始めた。Heinz Fehringは仕事だけでなく、人生についても色々教えてくれ、私の第二の父のような存在となった。彼はまた私の26年にわたるコーチとなるWilli Hoffman(ウィリ・ホフマン)を引き合わせてくれた。

私の17歳の誕生日が近づき、同時に三年契約の終わりが近づいた時、クラブ・プロHeinz Fehringが非常に重要な質問を私に投げ掛けた。彼は『クラブ・プロになりたいのか、トーナメント・プロになりたいのか、どっちだ?』と聞いたのだ。私は身の程も弁えず、トーナメント・プロになりたいと本心を漏らした。私はコースでのパフォーマンスによって生計を立てたいと考えていたのだ。Heinz Fehringは励ましてくれ、私の練習時間を増やしてくれた。

しばらくして、ドイツの四つのクラブによる対抗戦があり、各クラブを代表するクラブ・プロとトップ・アマ26人が二日間競い合った。たった16歳の私が優勝し、500 DMを得た。1975年、ドイツ・ナショナル・オープンが開催され、三名のプレイ・オフの末、私がこの催しの最年少の優勝者となった。このトーナメントを見ていた観衆の一人が、後にドイツ・ゴルフ連盟の会長となるJan Brügelman(ヤン・ブリューゲルマン)だった。

クラブ・プロHeinz Fehringから、私がヨーロピアン・ツァーに参戦したがっていると聞いたJan Brügelmanが、私に援助を申し出た。彼は毎月私に定額(1,700 DM)の生活費を払ってくれ、私が賞金を得たらその半分を彼に支払うという取引であった。私はとても感謝し、興奮した。

こうして私はアマチュア・ゴルファーになることなく、一足飛びにツァー・プロとなった。それまでツァーで成功したドイツ人は皆無だったから、自分がどこまでやれるか見当もつかなかった」

 

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当時のヨーロピアン・ツァーには二日目のカットと三日目のカットがあったそうで、Bernhard Langerもすぐに順風満帆というわけにはいきませんでした。飛行機代節約のため車でヨーロッパ中を駆け回り、カット責めと闘う日々が始まったのです。

(September 17, 2017)

シニア・ゴルフを成功させる方法

スポーツ心理学者Dr. Dick Coop(ディック・クープ博士)のシニア・ゴルファーへの助言。

'Mind Over Golf'
by Dr. Richard Coop with Bill Fields(Macmillan, 1993, $12.95)

「シニア・ゴルファーたちと接していると、彼らの人生哲学とゴルフの成功に密接な関係があることに気づかされる。多くの人々は、人生のある時期に到達したという単純な理由で自分に限界を設け始める。彼らは自分自身をシニアと分類し、人生とゴルフとに自分自身で御託宣を授ける。『新しいショットを覚えるには、歳を取り過ぎてる』とか。彼らは本当の原因より、年齢のせいにしたがる。『昨年からパットがおかしくなってる。歳のせいに違いない』など。

加齢とともに肉体的限界が訪れるのは否定出来ない。それを無視するのは馬鹿げている。スポーツ医学において、20代半ば以降一年毎に体重の約1%を失うことは、一般的に認知されていることだ。これは筋肉の強さを失うことを直接的に意味している。しかし、それは一年の間に急激に起るものではなく、数年にわたって徐々に累積するものだ。しかし、あなたは己の強靭さの喪失を座視していてはいけない。

熟考された筋肉の緊張と柔軟性の体操プログラムは、こうした強靭さの喪失を緩和出来る。体操をするには老い過ぎていると感じるゴルファーは、これまた自分で自分に御託宣を授ける例である。体操を毛嫌いすると、適切にプログラムされた体操を実行する人より、早く老け込んでしまう。体操をするには老い過ぎているのではなく、体操をしないから老いてしまうのだ。

ただ、シニア・ゴルファーが調整すべきことはある。多くのシニアがグリーン周りで問題を抱える。若い時に見えたグリーン上での転がりが見えないとか、神経がすり減ったとか、パットする際痙攣したり、yips(イップス)を病んだりしているとか。この痙攣は、チッピングやピッチングする時にも起る。こういう症状が出たら、ロング・パターを採用すると、大きな筋肉でストロークが可能だ。【編註:ロング・パターやベリィ・パターの使用自体は違法ではありません。身体を支点とするアンカーリングが禁止されているだけです。2017年現在、Bernhard Langer(ベルンハード・ランガー)は、いまだにロング・パターで勝利し続けています】

あなたのスウィングに合った適切なクラブ・シャフトを見つけることも重要。距離を望むなら、2ピース・ボールも考慮すべきだ。高い軌道で打ちたければ、そういう性能のボールも購入可能である。

 

加齢はマイナスばかりでなく、利点もある。歳を取ると、人間として成熟し、自己受容【註】するようになる。これはゴルフ・コースで大きな助けとなる。また、多くのシニアにとって若いゴルファーより限界内でプレイするのは容易である。あなたが若く強かった頃、飛ばないけれど真っ直ぐ打て、グリーン周りでこすからくプレイし、いつもあなたの金を巻き上げたシニアのことを覚えているだろう。敗北に呻きながらも、あなたは秘かにこの老人のようにプレイしたいと願った筈だ。その強みを活かさねばならないのは、今この時である」

【編註】自分の能力、素質、欠点、犯したミスなどを素直に受け容れること。

【参考】「体型別フィットネス運動で飛ばす」(09/10)

(September 17, 2017)

バイフォーカルは駄目よ

 

「体型別スウィング」の共著者(三人)のうち二人が執筆したシニアのための教本から、遠近両用眼鏡の害について。

'Play Better Golf for Seniors'
by Mike Adams & T.J. Tomasi with Kathryn Maloney (Henry Holt & Company, Inc., 1998, $29.95)

「ゴルフする時、バイフォーカル(遠近両用眼鏡)は避け、単一レンズの眼鏡を掛けるべきだ。バイフォーカル・レンズの上方の遠距離用レンズでボールを見ようとすると、アドレスで首を胸に埋めて頭を下げなくてはならない。

そんなことをすると、捻転を制限してしまい、バックスウィングでクラブを上げるのに無理をせねばならなくなる。これはあなたのポスチャーを損ない、パワーに必要なコイル(捻転)の能力を大幅に減じてしまう」

(September 17, 2017)



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