【詳細 3】

1954年の最高裁判決の欠点は「公立学校は○月○日までに人種差別を止めよ」という目標を示さなかったことでした。これを補足するため、翌1955年に再度の審問が行われ、これは世に"Brown II"(ブラウン・ツー)と呼ばれています。保守派のアイゼンハワー大統領や南部白人勢力の圧力により、"Brown II"の結論は[学校の人種統合は]"all deliberate speed"(慎重な速度で)というものになりました。この曖昧な表現は南部諸州に学校の人種統合を遅らせる口実を与えることになりました。

事実、南部各州の知事たちは最高裁判決に抵抗する意思表示をし、白人優位主義者たちは多額の資金を集めて組織作りを始め、K.K.K.も未曾有の会員増を得て、学校の人種統合反対への動きを強化するという状況になりました。いくつかの州では、黒人生徒を締め出すため公立学校を閉鎖し、白人生徒たちは私立学校に通わせられるという異常事態さえ起りました。

この動きは、リトル・ロック(アーカンソー州)セントラル高校の人種統合 (1957) 、ニュー・オーリンズ(ルイジアナ州)のルビィ・ブリッジス(6歳)の入学 (1960) 、そしてミシシッピ大学初の黒人学生ジェイムズ・メレディスの転入にともなう暴動 (1962) などへと連綿と続いて行きます。

【閉じる】





Copyright (C) 2002-2004 高野英二 (Studio BE)
Address: 421 Willow Ridge Drive #7, Meridian, Mississippi, U.S.A.