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なぜ、この時キング牧師が参加しなかったかは謎です。キング牧師自身は「長くAtlantaの地元教会を留守にしていて、信徒に対して義理を欠いていた。特にLent(四旬節)は重要な時期なので戻らざるを得なかった」とも、「私の周囲が、州警官や人種差別主義者の攻撃に曝されるであろう行進への参加を憂慮した」とも述べています。しかし、Selma→Montgomery大行進のような一大イヴェントと地元信徒へのサーヴィスが較べられるとは思えず、これは納得出来ません。また、行進大好きであり、これまでも幾多の脅迫を乗り越えて来たキング牧師が、ここに至って怯むというのも解せません。

一つには活動家たちの主導権争いがあったようです。SNCC(非暴力学生連盟)は三年も前からSelmaでの活動に取り組んでいたのですが、日増しに募るシェリフと警官隊の暴力で運動は立ち往生していました。そこでSelmaの指導者たちはキング牧師率いるSCLC(南部キリスト教指導者会議)を招聘しました。SNCCは運動がキング牧師という偶像化された人物にリードされるのを快く思わず、Selma→Montgomery大行進には不賛成でした。SNCC委員長John Lewisは「Selmaの人たちが行進を望むなら、われわれも一緒に行動すべきだ」と主張しましたが組織に受け入れられず、SNCC委員長としてではなく個人の立場での参加なら黙認ということに落ち着きました。“血の日曜日”には、John LewisとSCLCの牧師Hosea Williams(ホーシー・ウィリアムズ)の二名が先頭に立ちました。

もう一つ重要なことですが、キング牧師も「安全を見極めて、行けるところまで行け」と指示し、バックパックを背負っていたJohn Lewisすら「50マイルも行進出来るとは思っていなかった」と云っているほどで、誰もこの日曜日に遠くまで行けるとは思っていなかったのです。参加者の多くは日曜礼拝の礼装のままだったり、ハイヒールの御婦人までいました。留守部隊としてBrown Chapelに残ったSCLC幹部は、「5日間の食料調達、テント設営場所の選定が火急の仕事だったが、それが現実的に必要とは思えなかった」と語っています。つまり、誰もが州警官やシェリフたちの強い妨害を予期していて、“違法デモ行進”が町を出られるとは考えていなかったことが分ります。

[Lewis]

John Lewisは彼の著書'Walking with the Wind'(Harcourt Brace, 1998, $16.00)で次のように書いています。

「橋の中ほどでやっと進行方向が見えた時、そこには州警官隊がびっしりと横隊になって道を塞いでいた。牧師Hosea Williamsは橋の下の濁った川の流れを見下ろしながら、『あんた、泳げるか?』と聞いた。私が『ノー』と応えると、『そうか』と微かな笑みを浮かべてHosea Williamsが云った、『おれも泳げない』。『しかし』と、顔を水面から戻し、真正面を見据えながら彼は続けた、『泳がなくちゃならんかもな』。

警官隊は我々に二分以内に廻れ右して戻れと命じた。我々は600人が二列縦隊で並んでいて、二分で廻れ右して後退することなど不可能だった。前進は州警官隊の牙に飛び込むようなもので、攻撃的過ぎた。唯一考えられるオプションがあった。『ひざまずいて祈ろう』と私はHosea Williamsに云い、彼が頷いた。しかし、まだ一分も経たないのに、警官隊に号令が下った、『前進!』」

この日の州警官、町の警官たちは警棒、鞭、ロープ、機関銃などを用意しており、特に騎馬警官たちはカウボーイが牛や馬を扱うように黒人たちを鞭打ったそうです。

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