【詳細1】

黒人たちが奴隷であった時代、プランテーション・オーナーにとって黒人一人一人(子供も含む)は彼にとって財産でした。日本の武家社会のセオリー「百姓は生かさぬように、殺さぬように」と同じで、奴隷たちの健康は一応大事にされたのです。

しかし、奴隷ではなくシェアクロッパー(小作農民)となった黒人たちはもはや白人地主の財産ではありませんから、可能な限り搾取され、「死んでも代りはいくらでもいるわい」という状況になったのです。シェアクロッパーというのは種や苗、肥料などの代金を地主から前借りし、農繁期には子供まで駆り出されて収穫し、前もって決められたシェア(歩合、分け前)を貰うというシステムでした。

シェアクロッパーが絶対に裕福になれない一つのトリックがありました。大概の地主は食料品を含む雑貨屋を経営していたのです。収穫までシェアクロッパーは現金がありませんから、その地主の店から前借りで食料や衣類などを購入しなければなりません。この代金は収穫後の分け前から差し引かれます。もし、天候や何かの加減で非常に多くの収穫があったとすると、この地主の店の商品価格は異常に高騰しました。つまり、シェアクロッパーの手取りは常に一定でしかなかったのです。

子供にとっての教育環境は劣悪でした。小屋のような建物に低学年から高学年まで一緒になり、一人の先生が全ての面倒を見るというのが普通でした。おまけに、農繁期(綿の収穫)の長い休みがありました。こういう状態が長く続いていたのです。

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