【詳細 3】

1963年の「ミシシッピ州NAACP代表Medgar Evers(メドガー・エヴァーズ)の暗殺」の犯人Byron de la Beckwith(バイロン・ディラ・ベックウィズ)はこのGreenwoodに住んでいました。彼が住んでいた家はもう取り壊され空き地になっています。

もう一つの事件はGreenwood郊外のMoney(マネー)という町で1955年8月に起ったEmmett Till(エメット・ティル)殺人事件です。Moneyというのは妙な名前ですが、これはその地の大地主の名を取ってつけられたもの。当時14歳でシカゴに住んでいたEmmett Tillは、このMoneyに伯父さんを持つ友人と一緒に夏休みを南部で過ごすためにやって来ました。彼の母は2歳の時に家族とシカゴに移ったのですが、南部での黒人差別を知っていましたから、息子に「白人とすれ違う時は、屈んでお辞儀をするように」と命じました。

[Grocery_store]

ある日、Emmett Tillと友人は白人が経営する食料品店に行きました。外に屯する黒人少年たちに、Emmett Tillは白人少女の写真を見せ、「これはおれのガールフレンドだ」と自慢しました。地元の黒人少年たちが「店にも白人の女がいる」と云うので、Emmett Tillは店に入りました。彼はお菓子の代金を払うと、レジの白人女性に向かって口笛を吹いたのだそうです("Bye, Baby."と云ったという説もある)。居合わせた黒人の老人から「お前、彼女に撃ち殺されても文句は云えねえぞ」と警告され、震え上がった二人は伯父さんの車をすっ飛ばして帰りました。

そのレジの女性は若く見えましたが、実は店の主人の奥さんで二人も子供がいる主婦でした。彼女はEmmett Tillの行動について誰かに云うと大変な騒動になることを知っていましたから、誰にも喋りませんでした。しかし、その場に居合わせた多数の人間の口から噂は瞬く間に広がりました。当時、彼女の夫はNew Orleans(ニュー・オーリンズ)へ行って不在でしたが、三日後、彼女の夫と彼女の兄がEmmett Till滞在中の家にやって来て、Emmett Tillを引き立て車に押し込んで連れ去りました。

[Hernando]

三日後、Emmett Tillの死体が町を流れるTallahatchie River(タラハッチー川)で発見されました。首には重しとして古い農機具のファン(扇)が縛り付けられ、頭部に銃弾が打ち込まれ、片方の目が飛び出し、額の一方が陥没していました。

シェリフは迅速にEmmett Tillの遺体を埋葬しようとしましたが、彼の母親(33歳)は「遺体をシカゴに送ってくれ」と要請。シェリフは「棺は開けないこと」と葬儀屋に命じて、渋々母親の願いを聞き入れました。

Emmett Tillの母親は、それが自分の息子かどうか確認するため、柩を開けました。あまりの容貌の変化のため、指輪と額の線や歯をチェックすることで息子とやっと確認出来るほどでした。彼女はミシシッピの人々の残虐な行いを世に知らしめるため、柩を開けたままの葬儀を行う決意をしました。黒人のための新聞の一つが、Emmett Tillの遺体の写真を掲載したことと、むごたらしい遺体を公開した葬儀とによって、Emmett Tillの事件は全米の話題になり、黒人たちを憤激させました。

Emmett Tillを拉致しに来た男性二人は起訴され、直ちに公判が行われました。Emmett Tillの友人の伯父は、法廷で男性二人を指さして証言しました。この当時、黒人が白人を告発することは自分に死刑を云い渡すようなものでしたから、彼の勇敢な行為はアメリカ中の黒人に影響を与えました(ただし、白人の報復を恐れたこの老人は、裁判後北部に引っ越しました)。「モンガメリ(アラバマ州)のバス・ボイコット」は、Emmett Till事件の四ヶ月後に起っています。

一ヶ月後、白人男性ばかりの陪審員は、二人の被告の無罪を云い渡しました。近年、この二人の男性は相次いで亡くなっています。しかし、2004年5月、連邦司法省はこの事件を再審理すると発表しました。Emmett Till殺人事件には他にも白人と黒人を交えた数人の幇助者があったことが知られています。再審理はそれらの人々を告発するためのもので、Emmett Tillの遺体が掘り起こされて死因を明らかにするというのが最近の動きです(何故か事件当時、司法解剖が行なわれなかったのだそうです)。

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