【詳細1】

William Baxley(ウィリアム・バクスリィ)は州知事の座を目指していましたから、爆破事件の解決によって黒人有権者層の支持を得ようとしたことは間違いありません。しかし、彼はオフィスにリンカーンやケネディの肖像を飾っていたほどで、公民権運動に対しての理解もあり、学生時代の“公約”を真摯に実行しようとしたのも事実でしょう。

William Baxleyは数年の間に幾たびかワシントンD.C.のFBI本部に赴き、資料公開を懇願しようとしましたがいつも玄関払いでした。ある時、古い友人であるLos Angeles TimesワシントンD.C.支社長に会い、非協力的なFBIの態度と、それにもめげず犯人を監獄送りにする決意を語りました。感銘を受けたその友人は、「William Baxleyは教会爆破事件の遺族をワシントンD.C.のリンカーン記念堂に連れて来て、抗議の記者会見をするらしい。これはいい記事になる」と司法省に漏らしました。すると、司法省から「記事はストップせよ。FBIは資料を公開する」と連絡がありました。一人の友人の機転によって、教会爆破事件再調査は最初の難関を乗り越えることが出来たのでした。

なぜFBIが検挙者を出さなかったか、そして情報提供を渋っていたかには、次のような憶測があります。教会爆破犯を指摘出来る有力な証人の多くはFBIへの情報提供者だった。つまり、K.K.K.の中の誰かを買収して内通者に仕立てあげた人々なので、検挙者を出せば内通者名を明らかにしなくてはならず、彼らの命が危ない。FBIとしては折角の情報源を使い捨てにしたくなかったので、検挙者を出さずに資料もしまい込んでしまったというもの。連邦司法長官とFBIの連携プレーが見られるようになったのはカーター大統領(任期1977〜1981)の時代からで、William Baxleyはちょうどそれ以前に悪戦苦闘した結果となったわけです。

William Baxleyは州司法長官を二期勤めました。州法が三選を禁じていることもあり、William Baxleyは自分の未来を州知事選に賭けましたが、1978年の挑戦は失敗に終わりました。投票者へのアンケート調査によれば、支持者のうち「教会爆破事件の解決」を理由に挙げている人はわずかに14%で、事件解決への努力は白人層の多くの票を失う結果となったようです。1982年、彼は副知事に選ばれ、1986年の州知事選に再度立候補しましたが、また敗れ、その後は弁護士として働いています。

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